《福音》恵みのおとずれ 2001年 5月号

小さい頃、盲腸炎の手術をするのが得意でした。もちろん、「ままごと」の話です。遊び友達にとっては大迷惑だったでしょうが、竹べらをメスの代わりに外科医のまねごとをよくしたものです。「ままごと」は、神様が私たち人間に与えて下さっているいろいろな能力のなかで、もっともすばらしいものの一つではないかと思います。

 「ままごと」、それはつまり、自分の靴ではない他人の靴を履いてその人の役割を演じるということです。「ままごと」をする能力がなかったら、人の気持ちを汲み取るという円滑な人間関係にどうしても必要な基本的な動作が私のうちに育たなかったでしょう。と同時に、第三者の立場に立って自分を振り返るということをしない独りよがりの人物になっていたかもしれません。大人になっても「ままごと」をきちんとこなせる人は、人の痛みを丁寧に受け取ってやることができるようになります。何でもないように見える幼児の「ままごと」能力が、やがて、社会的な善悪の判別能力養成にもつながっていきますし、人とのつきあい方に大きな影響を与えるようです。ひいてはその人の指導力をも左右します。新約聖書のⅠコリント9:19~22には、相手の立場に立って様々な人々を救いに導いた偉大な指導者パウロの姿が描かれています。

 「ままごと」には通常もう一人の相手が必要です。しかもその相手がテレビゲームにでてくるような体温のない人物であってはならないのです。コンピューターのスピーカーが発する機械的な造成音との対話ではなく、心と心が通じ合う対話ができる相手が必要です。「ままごと」をするという手近な時間と空間が置き去りにされ、血の通った人格と人格の接触がないサイバースペースといわれる仮想の空間で大人になってゆく子どもが益々多くなってきました。遊びとしての「ままごと」ではなく、教会の交わりの中で、神から授かったこの能力を霊的に働かせることにより「キリストの心を心とする」(ピリピ2:5文語訳)作業が必要です。世代のズレを少なくし、家庭崩壊をとどめる機会がそこに生まれてきます。

  文・北野耕一

文・渋沢清子