《福音》恵みのおとずれ 2001年 9月号
男性が普段着用するワイシャツにいくつボタンがあるか女性の方々はご存知でしょうか。製品によって違いますが、だいたい13個ばかりあります。実は、毎日着るワイシャツのある箇所につけられているボタンが、私の指先の動きになかなか協力してくれず、貴重な時間(たった数分だといえばそれまでですが)をつぶしてしまうのです。袖口のボタンは割合簡単にかけられますが、問題のボタンというのはもう一つ肘に近いところにあるボタンです。ことにクリーニング屋さんから持ち帰ったばかりで糊のきいたワイシャツは始末に負えません。なかなかそのボタンが穴に入ってくれないのです。
年齢の所為だろうと思っていたところ、若いサラリーマンでも、そのボタンをかける手間を省いているのを夏の込み合った電車で発見しました。それほど面倒なボタンをどうしてそこにつけておかねばならないのかというのが私の他愛のない疑問です。製造業者にはれっきとした理由があるのでしょうが、審美的な価値も、実用性もないボタンは無くした方が良いというのが私の持論です(そのボタンとボタン穴が無いワイシャツが稀に売られています)。背広の袖にあるボタンも実用性は全くありません。一説によれば、寒い冬兵士たちが軍服の袖で鼻を拭く仕草を不衛生で、みっともないと見たプロシャの将軍が、その袖に先の尖ったボタンを縫いつけさせたのが始まりだということです。本来の意義が全くなくなったにもかかわらず残っている習慣や様式を学術用語では「文化残滓」と呼んでいます。しかし、ワイシャツのボタンは学問沙汰になるような大げさなものではありません。
なぜこんな簡単なことを…、なぜこんな無駄が…といった極々小さな日常のいらだちが積み重ねられ、間違った方向に走りだし、他のなぜ…、なぜ…と連鎖反応を起こすと、やがてそれが精神的不安定を誘発し、判断力を鈍らせ、人間関係に思わぬ亀裂を生じさせる可能性があるのです。預言者ハバククも「何故」、「何故」を連発しましたが、そのいらだちを主なる神のみもとに拡げたので、「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)という回答を与えられました。これが、パウロの神学を支え、やがて宗教改革の起爆剤になったのです。本当に些細なことですが、私が小さなボタンと格闘するとき、小さな声で「神様」と呼びかけます。ちなみにこんなことを書く私は昭和一桁生まれです。
文・北野 耕一
文・渋沢清子