《福音》恵みのおとずれ 1998年 4月号
春は自然の中にいのちを見る季節です。冬の間、あたかも枯れたかと思われる木々に、小さな新しい芽が芽吹き始めます。それは、死からいのちへのよみがえりを思わせる、素晴しい季節です。
人間が死んだ後、よみがえるという考えは、人間の考えではありません。それは、神の国の思想であり、真実なのです。
イエス・キリストは十字架にかかって死なれ、3日目の日曜日の朝によみがえられました。イースターは、このことを記念する日です。このイエス・キリストのよみがえりは、私たちの人生にとても重要な意味を持っています。
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4章25節)
本来人間は、創造主である神様に創られ、祝福されたものなのです。しかし、人間はこの善き神様にそむき、反逆してしまったのです。その結果、神様との素晴しい交流は断絶し、人間は自惚(うぬぼ)れと自己中心の中で生活するようになりました。そこには罪と死の原理が働き、永遠の希望を失い、空しさが襲い、絶望が人を苦しめるようになりました。文化も科学も哲学も、そして教育、宗教もこの問題を解決することができません。「罪と死の力」に対抗することができないのです。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)
しかし、イエス・キリストは、人間に働く罪と死の力を砕くために、私たちの過去、現在、未来の罪のすべてをその身に負われ、私たちの身代りとして十字架にかかられました。そして、3日目にすべての罪と死の勢力を打ち砕いてよみがえられたのです。それはまさに、私たちのすべての罪を清算し、私たちを縛る罪の力を砕き、罪の結果である死をも打ち破った証拠としてのよみがえりだったのです。
「信仰によって義と認められた私たち」(ローマ5章1節)
今日、イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じる信仰により、その人の罪は完全に清算されるのです。この信仰によって、神様の前で罪のない者と見做(みな)され、義人と認められるのです。行いによって自分の義(正しさ)を立てようとしている現代ですが、イエス・キリストを信じる信仰、すなわち、信頼を通してのみ義とされるのです。神様に赦され、愛された義人となるのです。
「私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4章17節)
信仰のゆえに、私たちもやがてイエス・キリストのようによみがえり、天国に移されるのです。主イエス様を信頼して、よみがえりの希望を持って歩む者となりましょう。
文・増田 哲之