巻頭言|月刊アッセンブリー2007年2月号

「主に喜ばれた献げもの」

丹澤 幹子 (中村福音キリスト教会)

 ルカ福音書7:36-50に出てくる二人のうちの一人はパリサイ人です。彼は自分を正しいとして高ぶり、自らの信仰を誇っていました。信仰はただ信ずるというだけでなく、信ずるところを生活しなければならないということ、また行いのない信仰は死んだものであることを忘れていました。今日でも、伝統的な信仰を持ち、神のことばの真理を持つと言っている人々の中に、このような過ちを犯している人がいるかもしれません。

律法的な信仰になって窒息しそうな生活、喜びのない律法に縛られた信仰ほど惨めなものはありません。イエスを招いたパリサイ人は、裁く理由を見つけようとしていました。そのことは食事の席に入ってきた一人の女の行いを、直ちに非難したことによっても明らかです。
もう一人の登場人物である罪深い女は、自分の罪を認め、救いの必要を感じていました。自分は弱い者だと気づく人は幸いです。自分を正しいと考え、自己満足している人のほとんどは福音を受け入れません。この女は自分の一番大事な物を献げました。長い間かけてやっと手に入れたと思われる尊い香油、そして涙を注いだのです。イエスの足はほこりで汚れていましたが、パリサイ人は足を洗う水をくれなかったのです。

この女は涙をもってイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐってイエスを拝しました。この姿は、悔い改めと主に対する愛、服従を意味しています。この時、パリサイ人は軽蔑の眼差しで見ていたので、この光景の中にある美しいもの、値打ちあるものを見出すことができませんでした。この罪深い女はパリサイ人のできなかったことをしたのです。どんなに貧しくても、弱くても、主を喜ばせることができるのです。主はこの女の過去の罪深い生涯を見ず、彼女の信仰と主のために献げる愛を見て満足されたのです。「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」(マザー・テレサ)自分の信仰を守るだけで精一杯になるのではなく、神のために生きようとする時、自分にできることが必あるはずです。

「何をするにも主に対してするように」(コロサイ3:23)