巻頭言|月刊アッセンブリー2007年6月号

「いたんだ葦を折ることなく」

内村 茂子 (沖縄中央アッセンブリー教会)

教会にはいろいろな人が出入りします。社会的に疎外されている人々も多く訪ねてきます。ある人は心の病を負い、ある人は生活の自立が出来ず、またある人は悪習慣から抜け出せず、各種の依存症で、疲れ、傷つき、教会に助けを求めてきます。
このような方々に対応するには多くの時間と忍耐が必要です。労多く、報いが少ないのが現状です。誠心誠意関わっても、問題が解決すると教会から離れてしまう方も多く、効率的な伝道とは程遠いように思われます。「主よ。なぜこのような人達ばかり次々と送って来られるのですか。」というもやもやした思いが心の片隅にありました。
心も体もずたずたになったある日、主はみことばを示してくださいました。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ…」 (イザヤ53章)
衝撃でした。まさにこれらの方々に主御自身の御姿を重ね見たのです。

ある夕昏時、若い女性がふらりと教会に入ってきました。彼女は高校時代からアルコール・薬物依存で入退院を繰り返し、金銭、異性問題など、十指に余る悪習慣や問題を抱え、病院でもブラックリストでした。巧みな虚言に翻弄されながら、長い付き合いが始まりました。洗礼を受けてもなお、行きつ戻りつの状態でした。
ところが私の思いが変えられて後、彼女も徐々に変えられていきました。先頃、最後の砦であったニコチン脱却宣言をし、複数の依存症から完全に解放されたのです。出会いから20年、厚化粧から解放された笑顔は神様からの大きな慰めです。

イエスさまは痛んだ葦を折ることなく、くすぶる燈芯を消すことのないお方でした。多忙なスケジュールの中で、バルテマイの叫びに立ち止まり、サマリヤの女性にねんごろに語られました。
私達の周りには、格差社会に取り残されそうな人たちが大勢います。イエスさまのように弱者に心と時間を用いる者でありたいと切に願います。