月刊アッセンブリー| 2010年4月号

イエスさまを思う

神谷恵美(元加治キリスト教会)

  神である方が神のあり方を固持したいとは思わず、私達と同じ罪人の姿になられた。貧しく生きて、誤解され続けても、どうして人間などになってしまったのか…と後悔せず、釘付けされた十字架の上で「あなたが神の子なら…」と誘惑されても、もうやってられない!と投げ出さず、黙したまま十字架で死なれた。主は仕える者となる道を選ばれたからです。例えシモベとなられても、神でなくなった訳ではありません。その通り、あの十字架の上に私達は神を見出し、神の愛の広さ・深さを知りました。この「シモベとして仕える道」に、神はあなたを招いておられます。

この世ではシモベになる/徹底して仕える道は、愚かな生き方と理解されるでしょう。「そんな事はありません、私達クリスチャンは」と本気で言えるでしょうか? 私達には欲がありますから、自分の許容範囲を超えて辱(はずかし)められる事は嫌ですし、捨てられないものが実は沢山あると、あなたは気付いておられるはずです。シモベになる、貧しくなる、自分を捨てる道を誰が好んで選ぶでしょうか。私達の本心を神がご存じないはずがありません。それでも主はご自分から近付いて、声を掛けて下さいます。「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」ルカ24:15

エマオへの道を、イエスと気付かずに一緒に歩いた弟子達。墓のそばでイエスを見て、イエスと分らなかったマグダラのマリヤのように、自分の思い、自分の考え、自分の欲で一杯の時でも、イエスはやはり共にいて下さいます。

主が十字架に掛けられたエルサレムからエマオに遠ざかる道ではなく、主の十字架を仰ぐ道へ戻りませんか。私達のために貧しくなられ、十字架で死なれた主が私達の誇りです。新約聖書の殆(ほとん)どをパウロの言葉に譲られた主が、私達の誇りです。世界中の有名な誰より、いつも一緒にいて下さる主が私達の誇りです。

お気付きでしょうか。あなたの細くかすかな声を聞き分けられる主は、あなたのすぐそばにおられます。シモベとして仕える道は、へりくだられた主と出会う喜びの道です。