月刊アッセンブリー| 2011年9月号

「生きた主」を体験するために

藤本幸雄 (東海教区長・四日市神召キリスト教会)

 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)

私たちは、生きていく中で「できれば苦しみは避けて通りたい」と願います。しかし主は、私たちをキリストに似たものと整えるために、あえて苦難を通させることを、聖書は教えるのです。

日本人には「和(わ)をもって貴(たっと)しとなす」(仲良く和合することが最も大切だということ)という美徳の精神があります。これは特に海外の方と親密に交わる中で「日本人の特質」として感じることです。日本人は人と争わず、調和を保つという優れた文化を持っています。

しかしこれは「長いものには巻かれろ」式に、自分の感情を抑えることを強いる文化でもあるのです。そのため周りの目の「期待される姿」を演じ、いつの間にか「自分の本当の感情」を見失うことにもなります。これは「人間関係術」としては優れていても、「個人の成熟と成長」からすれば大きな問題なのです。特に聖書の信仰(創造主を信じる信仰)は「個人の応答」が不可欠ですから、自分の本音を見ずに生きてきた人には、「どのように主に祈り、求めたらよいのか」が分からず、「生きた主との出会い」が経験しにくいのです。

主は、自分の本音に気づかせ、「生きた主」と出会わせるために、苦しみを用いることがあります。主は、旧約聖書のヨブのように「家族の不幸」「財産の破たん」「病気」「友人の批判」などを通じて、「人間では解決できない問題」を創造主に訴え叫ぶように導かれるのです。そこで自分の本当の姿(醜い姿)を知らしめ、主と出会うような特別な体験をさせるのです。

あなたは主に本音を訴えていますか?(醜い本音で主に叫んでもよいことを知っていますか?)イエス様の十字架は「あなたの表面的な罪」だけでなく「あなたの心の奥底の罪」の赦しと聖めのためのものでもあるのです。

苦しみの中でこそ、主を求めましょう。主に心の奥から叫び、奥底の罪を告白し赦ゆるされましょう。それを経験した分、主の教えを真に知り、「生きた主」と出会うことができるのです。