月刊アッセンブリー| 2011年12月号

恵みがやってきた

日吉成人 (北見神愛キリスト教会)

 「すべての人を救う神の恵みが現れた」(テトス2:11)

恵みとは「神の属性の一つで、ふさわしくない者に対して示される神の善意」のことです。本来、受ける価値も資格もない者であるにも関わらず、神の一方的な善意として私たちに与えられます。神に背を向け、光を見出せないで暗闇の中にいる人々、恵みとは程遠いと感じておられる人々、そういう全ての人々にこそ神の恵みは届けられます。

また神の恵みは、「ひょっとしたら与えられるかもしれない」という運命論ではありません。聖書は「神の恵みが現れた」と大胆に宣言しています。クリスマスを祝うということは、キリストの誕生によってどんな人にも恵みが到来したと宣言し、共に救い主の誕生を喜ぶ時でもあります。

私は、北の大地で迎える三回目のクリスマスをアドベント(待望)しています。最低気温が氷点下10度を下回る12月、「主よ、安息日に雪が降らないようにと祈ったではありませんか」と前の晩から当日にかけて、何度も雪かきをして迎えた昨年のキャンドルサービスを思い起こします。

今まで「何とかなる」と楽観論で生きてきたけれど、「何ともならない」絶望感を抱えながら集われた女性が、聖書を通して「何とかして下さる」救い主の誕生を知り、キリストの恵みの光をしっかりと心の中に灯(とも)されました。今年のクリスマスも神の恵みの到来を喜んで宣言させて頂きたいのです。

様々な出来事のあった2011年。新年の慶(よろこ)びの挨拶を控えなければならない方々、「どうして」という不条理を抱えながら年末年始を過ごされる方々にとって、クリスマスを祝う気分になれないかもしれません。しかし、クリスマスの喜びは自分に関係ない、ふさわしくないと感じられる方々のためにこそ、神の恵みが現れました。神は「どん底から自力で這(は)い上がれ」と言われたのではなく、神の子であるキリストを人の世の暗い現実に光を与えるために送られました。クリスマスは現実逃避のお祭りではなく、慰められることすら拒むほどの「ラマの叫び」(マタイ2章)を聞き、しっかりと背負われた救い主の訪れを宣言する時です。

私たちの隣人に恵みの到来を、救い主の誕生を告げ知らせようではありませんか。