月刊アッセンブリーNews 2012年6月号

ある意味、主の臨在が全てです

船津信成 (関東南西教区長・金沢基督教会)

  「主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」

イザヤ書(59:19)のメッセージは、今日も地上に建てられた全ての教会とその会衆に向けられている。

イザヤ神学のクライマックスがここに描かれている。「主の息」が吹きまくっているという。もの凄(すご)い表現である。この主の息は “ルアーク・ヤハウェ” が用いられ、直訳は「ヤハウェの霊」となろう。これは、多くの場合、主の僕を奮い立たせる「召命物語」に現臨する特別な用語である。オテニエル(士3:10)、ギデオン(士6:34)、サムソン(士14:6)、ダビデ(Iサム16:13)、と数多くの主の器に臨む。

この”ルアーク・ヤハウェ”は吹きまくる(ノセサー)、とあるが、直訳すれば、「もの凄い勢いで(大風のようなものが)通過する」という意味である。それは、人間のような小さな存在が小手先で操れるようなものではない。圧倒的な「存在者」が、何の制約も受けることなく吹きまくるのである。

更に、日本語訳聖書には訳しきれなかったヘブル語がある。”ボー”である。これは “with him(彼と共に)” と訳す。彼の、つまり、「ヤハウェの中に」または「ヤハウェに伴って」とあるが、整理するなら、霊は、もの凄い勢いで到来する、そこに「ヤハウェご自身が共にいる」、と訳すべきだ。ヤハウェご自身が現臨する。中心問題は、「現象」ではない。「ヤハウェご自身」がそこに居られるということである。もしそのことを気付かねば、礼拝としては最悪の結果になろう。軽快な音楽、斬新なプログラム、センスの良いパンフレット、飽きさせないトーク、どれもこれも魅力的である。しかし所詮(しょせん)は周辺事項だ。現象に過ぎない。問題は、主がそこに居られるか否かである。「主の臨在、ある意味それが全てです!」 全てのペンテコステ信仰者は渾身(こんしん)の力を込めてそう宣言すべきである。

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