月刊アッセンブリーNews 2014年4月号

復活の命

藤村 良彦 (関東南西教区長・藤沢福音キリスト教会)

マグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。
マタイ27章61節

「墓」とは、命と希望がなく、死を連想します。私たちはなるべく「死」を考えないようにして過ごしています。街中で「4」という数字が除かれ、車のナンバープレートに「し」という平仮名は使用されません。死に対して目を背け、避けて過ごしています。

毎年行われるフィリピンと台湾の体験ツアーにおいて、生きた豚や鶏を自らの手で処理し、食料とする体験をします。私たちが普段口にする物は、すでに命を失っているものばかりです。参加者たちはさっきまで生きていたのに、目の前で解体されていく姿を見ながら死と向き合い、「命」とは、と考えさせられます。死と真正面から対峙(たいじ)しなければ、生の意味を見出すことはできません。

マリヤは墓に向かって座っていました。墓を背にして泣くこともできたはずです。しかし入り口が閉ざされた、出口の見えない洞窟(どうくつ)、光の差し込まない絶望、命のともしびの火が消えた真っ暗闇に向かって座り、対峙していたマリヤたちが、最初に復活の主にお会いしました。

伝道者となって17年・・・。開拓初期の土曜日の夜、日曜日の朝を迎えることへの不安から、心が押しつぶされそうになり一人会堂で祈りました。ようやく数名の礼拝となった頃、一人で駆けずり回りながら奉仕し、疲れ果て、夜コンビニで、アイスを手にレジに向かい、お金を探すと17円しかなく、しかたなく何も買わずに帰宅しました。特別集会の時に限って、いつもより集う人が少なくなりました。その度ごとに心は落ち込みましたが、絶望を経験したのではありませんでした。

家族が増え、教会に人が集うようになり、様々なストレスと問題から、心が完全に折れてしまった2年前。光が届かない場所に閉じこもりました。このまま医者に症状を訴えれば、大量の薬が処方されると、冷静な分析だけはできました。家族がいなければ、朝起きることも、食事をすることもなかったことでしょう。そんな数日を過ごした後、枕元で妻が聖書を読み、涙ながらに祈ってくれました。それ以外その暗闇から立ち上がれた理由が見当たりません。状況は変わっていないのに、私の心が変わりました。復活の主が、ずっとそばにいて下さった事を理解できました。

死をも滅ぼした復活の命が、あなたにも注がれています。