隣人を喜ぶと言う選択

長谷川 忠幸 (境港キリスト教会)

旧約聖書には難解な物語が幾つかあるが、創世記4章のカインとアベル物語は旧約聖書における屈指の難解な物語であると言えよう。

何故神はカインの献げ物を受け入れなかったのだろうか。この謎は古(いにしえ)のときより今に至るまで多くの読者を混乱させるものである。多くの人は、カインは献げ物をする際に、それを惜しんだために、何らかの不正を行ったのだ。そのために神はカインの献げ物を拒絶したのだと考える。

しかし、アベルが神に不正の事実を密告したのならまだしも、不正がばれたという理由で弟を殺すだろうか。この物語は、わかるようでわからない本当に不可解な物語である。

ところで、創世記は兄弟の争いの物語を集めている書物である。そして、神は決まって弟を選ぶ。力強く野の獣を獲得する長男のエサウではなく、父の羊の世話をする弟ヤコブを祝福する。神が弟を選ばれることの共通点は、その選びによって人の可能性によらない祝福をもたらす創造の神の栄光が表されるということにある。

礼拝の場は、カインがアベルの献げ物より優れているかどうかを競う場ではなく、ただ神の栄光のみが表される場所なのである。しかし、兄弟であるが故に、神に選ばれた者が虚しい者(アベル)であり、自分の方が優れた者であることを証明したいという欲求に駆られるものである。

教会における人間関係は、まさに「兄弟姉妹」の関係である。そして、兄弟姉妹だからこそ、キリストの家族であるにも関わらず争ってしまう。誰が一番優れている信仰者か。自分は誰かより劣ってはいないか。また、大人は若者の未熟さを拒絶し、若者は年配者の古い知識を嘲笑(あざわら)い、新しい知識を持っていることを誇る。

しかし、主を崇(あが)める場所において本当に明らかになるべきは、神の可能性において人々を礼拝者へと新しく創造する主イエスの栄光なのである。とするなら、私たちがいつも隣人を喜ぶならば、その兄弟姉妹の集まる教会によって主イエスの救いの御業(みわざ)の素晴らしさが証(あか)しされていくのである。

つまり、隣人を喜ぶことが出来るかどうか、この一点において罪は教会の戸口で待ち伏せているのである。私たちは、いつも隣人を喜ぶ者となろう。そして、今日も罪深い私たちを神の可能性の中で礼拝者へと新しく創造される主イエスの救いの御業を誉(ほ)めたたえる礼拝をささげる者となろう。

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