月刊アッセンブリーNews 2017年4月号

復活のないキリスト教なんて

大坂 太郎 (ベテルキリスト教会)

「恋は奇跡。愛は意思。」(ファッションビル)「シカクいアタマをマルくする。」(学習塾)「日本を休もう」(鉄道会社)。どれも印象的なコピーですが、名コピーの中には商品名をそのまま入れたものも。その一つが「クリープを入れないコーヒーなんて」。ちなみに私は「入れない」派ですが、商品名は強烈に印象付けられています。

時に「クリープを入れないコーヒー」以上に興ざめなものがあります。それは「復活を信じないキリスト教」です。どこが「興ざめ」なのでしょうか。まず言えるのは復活を信じないキリスト教はちっちゃい(!)ということです。復活を否定し、その価値を認めなければ私たちの理性は満足するかもしれませんが、神は私たちの脳内に入る大きさになってしまいます。そんなアタマで骨抜きにされた神様とも呼べないものを信じるくらいなら、いっそ自分を信じたほうがましでしょう。

次に復活のないキリスト教には喜びがありません。私たちの罪のために死んでくださったイエス様を思って罪を悔いても、死からの勝利がないのですから、せいぜい泣き疲れて終わり。骨折り損のくたびれもうけです。

第三に復活のないキリスト教には希望がありません。神の養子(ロマ8・15直訳)になった私たちに与えられる「永遠のいのち」という相続財産は、実子であるイエス様がまずお受けになっているという事実がなければ、空手形や口約束と変わりません。どうりでパウロ先生は言うはずです。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」(Ⅰコリント15・19)と。
しかしその次の節には、

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として
死者の中からよみがえられました」

という力強いことばが続きます。これは事実の宣言です。ですがこの宣言を信じるかどうかは私たちの決断にかかっています。主の復活をすなおに信じる者は希望、喜び、そして神の偉大な力を体験できます。反対に主の偉大な力を自分のちっぽけな脳内に閉じ込め、単なる良い教えとしてキリスト「教」を奉ずるなら、その結果は哀れでみじめで残念です。

さあ、「主はよみがえられた」、この言葉を歴代の聖徒たちと共に告白し、喜びと希望にあふれたイースターをみんなで祝いましょう。ハレルヤ!