「自分が憩える祈りの時間」
以前参加したセミナーで、「人はどんなに大人になっても子どものように甘えられ、安らげる、ありのままの自分を出せる場所が必要だ」ということを学びました。
月刊アッセンブリーNEWS
1999年 10月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「自分が憩える祈りの時間」
しかしそれをいつまで経っても両親に求めたり、配偶者や自分の子どもに求め続けると相手が負担を感じたり、自分が自立出来なくなってしまう可能性がある。そうではなく、人は人を造られた創造主なる神様のところで自分自身を現し、本当の安らぎをいつも持つときに心の安定を与えられ、大人として人と関わっていけるのだ、という内容で、「なるほど」と思ったことを覚えています。
祈りは長時間、継続して行うときに堅く動かされない信仰を立て上げてくれるでしょう。時には激しく涙を伴いながら何度も何度も願い訴える祈りもあるでしょう。祈りは呼吸のように習慣となり朝毎に夕毎に膝を折って神様と人格的な交わりをする、貴重で楽しく、色々と教えられ、この方といられることをちょっと誇らしく感じる時間でもあります。いくら自分を隠しても飾っても、私の隅々まで知っておられる方が、十字架の贖いをされるほどの途方もない愛をもって喜んで迎えてくれる時間です。祈りは、人には見せられないような、ありのままの自分、わがままな自分やだめな自分も安心して出し、本音で神様と語り、神様の本心を悟る場なのです。このような神様の前で憩える時、不思議に世に生きる私たち自身は大人になれます。そこで変えられ、たとえ弱い私たちでも厳しい社会の中で戦っていく力が与えられ、健全で豊かな人間関係を持てるようになっていけるのです。
飾らない私を出せる祈りの時間は決して苦痛や義務にはなりません。何よりも神様と親しくなる楽しい時です。格好をつけず、人に見せるためでなく、自分から『祈りを慕う』クリスチャンになれたら幸いです。
《執筆者》
野川 悦子
港南シオンキリスト教会