《福音》恵みのおとずれ 1993年4月号

「わかっているのだけれどもなかなか信じられない。」という人によく出会います。この告白からすると、納得と信仰は全く別物だと言えそうです。他方、なかなか納得してくれなくて、難題を持ちかけては牧師を手こずらせていたインテリが、高等教育も受けていない“おばあちゃん”の単純な体験談を聞いて、素直に信仰告白をしたということもあります。何が人を信仰に飛び込ませる根本的なきっかけになるのでしょうか。

 使徒ヨハネは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目でみたもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(Ⅰヨハネ1:1)という書き出しで手紙を始めていますが、この中に信仰への順路を指し示しているように思えます。大切なのは、聞いて、見て、じっと見て、そして手でさわるという、その一つーつの動作ではなく、その順番なのです。信じるという経験において、見ることが、聞くことに先行しても、それほど大した違いは無いように思えます。しかし、主イエス・キリストご自身も、「見ないで信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)とおっしゃったほどですから「見て信じよう」とする前に「聞くこと」をしなければなりません。先月も触れましたように、神はロゴス(ことば)の神ですから、語られる神です。ことばそのものが神ですから、その神を信じるためには何よりも先ず「聞く耳」を持たねばなりません。

 イスラエルの民に与えられた神の命令は、「聞きなさい。イスラエル。」(申命記6:4)でした。使徒パウロも、使徒ヨハネと異口同音に、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(口マ10:17)と語っています。また主イエスも在世中、「耳ある者は聞きなさい。」(マタイ11:15、13:9など)と繰り返し強調しておられます。

 「聞こえてくる」物音を聞くような聞き方ではなく、神の語り掛けに「聴き入る」ような聞き方をすると、そこに信仰が生み出されるのです。日曜礼拝でメッセージを聞く時、日毎に聖書を読む時、そこから神のささやきを「聴きわける」態度でのぞむならば「見て、さわる」ような信仰の具体性を、必ず体験できるはずです。

文・北野 耕一

文・渋沢清子