「何を」と「いかに」が合わさった伝道
荻野 倫夫 (ガリラヤ丸子町キリスト教会)
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷(どれい)となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。……律法を持たない人々に対しては、……律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。……すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」 I コリント9:19~22
今年はマルティン・ルターの宗教改革500周年に当たります。ルターは著作『キリスト者の自由』の冒頭(ぼうとう)で述べています。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属(じゅうぞく)していない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、だれにも従属している。」
一見矛盾(むじゅん)して見える二つの命題は、冒頭の聖句を言い換えた言葉ということもできます。キリストは私たちを罪と束縛(そくばく)から自由にしてくださいました。私たちはその自由を放縦(ほうじゅう)のためにでなく、人々に仕えるために用います。
10月は伝道月間です。伝道の主題は言うまでもなくキリストです。これまで伝道における「何を」伝えるかには合意があったが、「いかに」伝えるかについては、議論百出だったように思います。効果的な伝道は何か。いかにしてクリスチャン人口1%の壁を破れるか等々。冒頭の聖句によれば、キリストを(何を)伝えるだけでなく、キリストが伝えたように(いかに)伝えるのが、聖書の伝道法のようです。
キリストは天からありがたい教えを講釈(こうしゃく)されたのでなく、神が人となって地上に降(くだ)り、私たちと同じ姿になり、私たちに伝道されました。冒頭の聖句は、その方法に倣(なら)った使徒パウロの伝道法です。日本人の文化や宗教の否定、断罪から始める伝道が「聖書的」なのでなく、「日本人には日本人のようになりました。それは日本人を獲得するためです」というのが、キリストを、キリストの方法で伝える聖書的な伝道法のようです。
日本人のキリスト教に対する戸惑いを理解し、福音がその心情に伝わるように語り直す努力を私たちがするなら、聖霊が、私たちの愛する同胞である日本人の心に、唯一の救い主であるキリストを鮮やかに表してくださることでしょう。