月刊アッセンブリーNews 第758号 2018/11/1発行より

学ぶ「ラマッド」למַָד

 

 

川口神召キリスト伝道所(埼玉県)
安田 眞 Makoto Yasuda

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。

私はそれであなたのおきてを学び(למַָד)ました。

詩篇119・71

 私たちクリスチャンは、生涯学習としてみことばを学びます。

 それは、聖書を読むことから始まります。第5回でお話ししましたが、改めてお勧めすることは、聖書を声に出して読むことです。声に出して読むことによって学ぶのです。それは、目で読み、口で読み、耳で読むからです。

 ヘブル語の楽しさは、動詞の変化にあります。一つの動詞が、名詞にも、形容詞にも変化するのです。勿論(もちろん)、日本語でも変化します。良く聞かされた動詞の活用形で、「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」を「ナイ、マス、言い切る、トキ、ハ、命令」と覚えさせられた方もおられると思います。

 さて、ヘブル語にも動詞の変化があります。しかし、同じ動詞が、その意味まで変化させて使われているのです。動詞の原型が、基本形、強意形、使役形に変化します。今回、紹介している「学ぶ」の強意形は、「教える」という動詞に変化します。

 同じ動詞が、「学ぶ」と「教える」の両方の意味に使われるのです。

 それは、学ぶことを更に深め、追究し、研究していくと教えるようになるからです。聖書では「教える」という言葉に訳されている動詞が、幾つかあります。

 例えば、「警告する」、「見せる」、「告げる」なども「教える」ことになります。「学ぶ」、「教え」と訳されている箇か所しょが、口語訳、新改訳、新共同訳では400 回前後に訳されています。そのように、聖書では「学ぶこと」、「教えること」の大切さが語られているのです。

 私たちは、聖書のみことばを学び、知ることによって人々に伝えることが大切だと知っています。「伝え」、「教える」ことによって更にみことばを学ぶからです。パウロが、愛弟子(まなでし)テモテに語っているように、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒しめ、また勧め(Ⅱテモ4・2)」ていきましょう。