月刊アッセンブリーNEWS 2018年4月1日号より

杉田キリスト教会(神奈川県)久保田 潔 Kiyoshi Kubota

聖書の言葉

「私たちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、私たちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである」
(Ⅰテサロニケ2:4)

 ある信仰雑誌に一人のクリスチャン青年の体験談が載(の)っていました。彼は人生問題で悩みながら歩いていた時、丁度教会の前を通り、そのまま中に入って集会に出席し、初めてキリストの福音を聴(き)いて神の救いに与(あず)かったそうです。翌日喜び溢(あふ)れて職場に行き、前の席の同僚(どうりょう)に証詞(あかし)をしました。するとその同僚は机の引き出しからおもむろに聖書を取り出し、“僕もクリスチャンだ”と言ったそうです。すると彼は大声で“このバカヤロー、お前は俺(おれ)を地獄(じごく)にやるつもりだったのか!”と怒鳴(どな)ったというのです。

 私達はうれしい事があれば誰かに話したくなるように、信仰の喜びに溢れていれば必ず誰かに伝えたくなります。しかも、聖書は最も重要な事として、クリスチャンしか主の福音を伝える事が出来ない事を強調しています。

 聖書に、コルネリオという百卒長が登場してきますが、彼はある祈りの中で、御使(みつか)いから「ペテロを呼べ」という託宣(たくせん)を受けます。そこで部下を遣わしてペテロを探し出して、自分の邸(やしき)に招き、ペテロから御言葉(みことば)を聴きます(使徒10章)。その事を契機に福音はユダヤ人から異邦人に、さらに全世界に拡大されていきました。コルネリオ家が御使いからではなく、ペテロを通して福音を聴いたように、神は徹底(てってい)してクリスチャンのみを用いて福音を語る事を決めておられるのです。聖書の何処(どこ)にも、神が直接天から声を発して福音を語ったとか、御使いが十字架の信仰を人々に迫ったという記録はありません。

 冒頭(ぼうとう)の聖書の「信任を受けて」(新改訳・新共同訳は「認められて」)という言葉は、“試験を受けて合格と認められた”と言う意味の言葉で、神は私達の欠点の多い信仰生活を御覧になった上で、私達を信頼して福音を語る合格者と認定されたというのです。

 ある時、何かの用事で教会のエントランスに降りて行ったところ、玄関の外で中年の男性が案内板を見ていたので、中に招き入れて一言信仰の話をしました。すると次の日曜礼拝会に御夫妻で出席されました。聞けば、帰宅して奥さんに話すと、実は子供の頃日曜学校に通った時期があり、常々教会に行きたいという思いがあったという事でした。後に二人とも洗礼を受けてクリスチャンになりました。夫妻とも薬剤師で、教会としては後々、大変助けられました。さりげなく語る聖書の言葉から、救いのチャンスが生まれます。

 今、あなたの隣(となり)に福音を一度も聴いたことが無く、あなた以外に生涯(しょうがい)福音を聴く機会が無い家族や同僚が立っているかもしれません。しかし“地獄に落として”よいわけはないのです。私達は、父なる神も御使いも直接は語らない救いの福音を託されている者として、まず(ⅰ)祈りを捧(ささ)げてから接触し、(ⅱ)自分が教会に行っていることから話し始め、(ⅲ)聖書の言葉を一言会話の中に入れ、(ⅳ)相手の反応を見つつ教会出席を勧(すす)めてみましょう。

 神は私達を、「福音を語る合格者」と見てくださっているのですから、人にではなく神に喜ばれるために、託されている福音をあらゆる機会に語り続けましょう。