月刊アッセンブリーNews 第731号 2016/8/1発行より
「全き者:タミム」תָּמִים
川口神召キリスト伝道所(埼玉県)
安田 眞 Makoto Yasuda
今回は、余り馴染(なじ)みが無いかも知れませんが「全き者、無垢(むく)な者」と訳されている言葉に注目したいと思います。新共同訳では2回、口語訳では10回、新改訳では5回使われています。共通しているのは2回になりますので、聖書の個所を開いて見たいと思います。
最初は、創世記17章1節です。
「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい』」と記されています。しばしば、3つの聖書の訳が異なることがありますが、ここの個所は、ほぼ同じように訳されています。
この個所は、創世記の12章から見始めるとより良く理解できます。12章1節で、「主はアブラムに言われた」と記されています。次に15章1節を見ると、「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」と記されています。そして、17章1節に至ると、主はアブラムに現れて言われたのです。最初は、声が聞こえただけでした。次は、幻の中で臨み、語られたのです。最後に、主はアブラムに近づき、現れて語っておられるのです。そして、アブラムに求められたのは、「全き者でありなさい」ということでした。
私たちが、「全き者でありなさい」と語られると、「完全、無欠、汚れがなく、潔白」ということを想像します。しかし、神の前に「完全、無欠、汚れがなく、潔白」で在り得るかと考えると在り得ないことです。主がアブラムに求め、イスラエルの民に求めたことは、完全無欠な者ではなく、主の御前(みまえ)に「丸裸になること」でした。一糸纏(ま)とわない姿でした。アダムとエバが丸裸であったように、アブラムにも包み隠さない姿を求められたのです。あなたも主の御前に露(あら)わな自分を曝(さら)け出していますか。弱さも、醜さも、足りなさも主はご存知です。
最後に、もう一つの個所は、申命記18章13節です。
*注:引用聖句は新共同訳です