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十字架をどのように理解するか
-中世神学の貢献-
今日は、時代から言うと中世をとりあげよう。
中世なんて僕たちに関係あるんですか?
「中世」はその後の宗教改革と比較されてよいイメージはないかもしれない。当時の教会は真理から逸脱していたと考えられがちだ。しかしこの時代も教理の歴史で重要な役割を果たして来た。その一つがキリストの十字架の理解だ。
2008年7月1日発行 通巻634号
中世以前の十字架理解
それは中世になるまで十字架についてわからなかったということですか?
いや、そうじゃない。五世紀までの教父たちも十字架の意味を考えていた。その一つはキリストが十字架で死なれて犠牲となって下さったという理解だ。これはへブル人への手紙にもあるだろう。さらに、キリストは十字架によって決定的にサタンに勝利された、人間を罪と死の力から解放して下さったという考えも強調された。これも聖書が教えていることだ。
ただ、オリゲネスはキリストの死はサタンへの身代金として払われたものだと考えた。また、キリストが人として来られたのはサタンを罠にかけて、サタンが堕落した人間に対して持つようになった権利から人間を解放したと主張する人たちもいた。
えっ!神さまがサタンを騙したんですか?何か変だな。
十字架による赦し
君と同じように感じたのが一二世紀に活躍したアンセルムスだ。
彼は、サタンを騙す神さまは道徳的に正しいと思えなかったし、サタンが罪のために人間に権利を持つと考えられなかった。
人間は罪のために神さまとの関係が壊れてしまった。言ってみれば人は神に対して負債を作ってしまったわけだ。
この関係を元に戻すには償い(賠償)が必要になる。でも人間は自分で償うことができない。
そこで、償うことができる神が償う義務を持つ人間になって来られて、十字架で死なれることで償いを完成(充足)して下さった。
アンセルムスはキリストが神であり人であることを踏まえてこう考えたんだ。これは13世紀に大著『神学大全」を記したトマス・アクィナスにも引き継がれていった。
十字架は道徳的模範
ところがアンセルムスの考えを批判する人もいた。
ほぽ同時代に生きたアベラルドゥスもその一人で、彼はアンセルムスの考え方をあまりに商業的だと批判した。
十字架とは神さまの愛の現れ、実証であり、それは私たちの中に神さまに応答する愛を呼び起こすためだとアベラルドゥスは主張した。
ただし、これが彼の主張のすべてと考えるなら間違いだ。彼も十字架を犠牲と考える教父たちの理解を継承している。
犠牲としての十字架、勝利としての十字架、罪の赦しとしての十字架、模範としての十字架、
十字架の理解も多様ですね。どの一つだけでも十字架のすべては語れないわけですね。
それだけ十字架は深い意味を持つ、キリストの偉大なみわざだと言うことだ。
最後に神の存在証明に取り組んだアンセルムスのことばを紹介しよう。
中世は信仰と理性の関係もテーマとしていた。信仰は合理的でもあるが理性に先行すると主張して、彼は言った。
「私の心が信じまた愛しているあなたの真理を、いくらかでも理解することを望みます。
私は、信じるために理解することを望まず、理解するために信じます。」