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聖餐の教理
-宗教改革時に起こった議論-
今日は礼拝で聖餐式がありました。聖餐にあずかるとイエスさまの十字架を思い起こすことができて、改めて感謝が湧いてきますね。
そうだね。でも聖餐の意味はそれだけではない。教理の歴史を振り返るといくつか立場があるんだ。一番議論が盛んだったのは前回と同じ宗教改革の頃だ。
2008年9月1日発行 通巻636号
カトリック教会の教えと宗教改革者
カトリック教会では聖餐は七つのサクラメント(「聖礼典」、カトリック教会では「秘跡」と言う)のひとつですね。私たちプロテスタントは洗礼と聖餐の二つだけですね。
そのとおり。カトリック教会では、聖餐は人が神にキリストをささげる犠牲の意味を持つ。ルターはこれを完全に否定した。また、カトリック教会が、聖餐を聖書のことばとは別に恵みを与えるものであり、執行する司祭の権威が重要だとしたのに対し、ルターは、聖餐は神のことばによってはじめて価値を持つものであること、聖餐にあずかる人の信仰が重要であることを主張した。当時、信徒はパンだけしか与えられなかったことについても、信徒もパンとぶどう酒の両方を受け取ることができると教えた。これは他の宗教改革者ツヴィングリやカルヴァンも同じだ。
ルターとツヴィングリの聖餐論争
ところが議論はここで終わらない。ルターは、カトリックの「実体変化」(パンとぶどう酒の見える色、形、味などは変わらないが、その実体はキリストの体と血に変化する。「化体説」とも言う)を否定した。この考え方がアリストテレスの哲学に基づくものだからだ。それでも「これはわたしのからだである」というキリストのことばをそのとおりに理解して、「パンとともに、パンの中にキリストがおられる」と教えた(共在説)。どのようにかは説明はできないが、聖餐の中にキリストが確かにおられるというわけだ。彼は聖餐を神の恵みの手段と考えた。
ところが、ツヴィングリは同じキリストのことばを「これはわたしのからだを意味する」と理解すべきだと主張した。天に昇られたキリストは聖餐の中におられない。聖餐はあくまで象徴であり、私たちがキリストの十字架を思い起こすものであり、信じる者が信仰を告白し、教会に属してクリスチャンとして生きる義務を告白するためのものであると教えた。
結局、ルターとツヴィングリは1529年の会談でも合意できなかった。
カルヴァンの聖餐論
カルヴァンは聖餐についてどう考えていたんですか。
彼はルターとツヴィングリの中間と言ってもいいだろう。
カルヴアンはツヴィングリの「象徴説」と同じではない。でもルターの共在説をとるわけでもない。キリストは確かに天におられる。しかし聖餐において聖霊が臨在されて、聖霊によって、私たちは天におられるキリストのからだと血が与えられる。その結果、私たちの信仰は強められるわけだ。
ルターは、人となられた神であるキリストが私たちの罪の現実とともにおられることを強調する。カルヴァンは、天に上げられたキリストの神としての栄光を強調する。そこから聖餐についての教理の違いが生まれてきているのじゃないかな。教理の背景とつながりを理解することは重要なことだね。