坂本キミ「私の生涯の回想記」(第3回)

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教団ニュース・アッセンブリー 1978年1月1日発行 通巻268号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

”関東大震災”

 大正十二年この頃の教会名は日本ぺンテコステ教会と呼ぴ、八王子市の町はずれの追分三十三番にありました。夜ともなれば人通りの全くとだえた静かな暗い町でした。当時八王子の人口は六万人弱の織物の町で、人々は実によく働く人達でした。いな、働かなければ追いつけない貧しさもあったようで、織物工場の女工達は夜遅くまで働かされたのです。

 教会は徐々に新しい人が加わってきました。日曜学校は太鼓を打って町をめぐり子供たちを集めるのです。ウェングラー先生が太鼓の前を後手で持ち、私がそれを後から支えて打つのです。
 「子供さんのお話とお歌の時間が来ます。おいでください。」と呼ぴ歩くのです。


 子供はよく集りました。教会の六畳二間はギッシリ一杯でした。全く人前で話すことなどしたことのない私にウェングラー先生は子供たちにこのお話をして下さい、と言われ「この魚は神様が人のために海の中に与えて下さったもので、神様は世の初めから今まで何でも只(ただ)で下さっている」というものだったと思います。
 今考えると冷汗ものです。この夏の七月に日曜学校によく来た子供に賞品をあげるので町に買い物に行きますからと、同行を頼まれました。人力車二台を連らねて町にでかけたのですが途中の灯提(ちょうちん)屋の前にきましたら先生は車を止めさせて私に〈あの美しいものを買います〉と言われ、私は全く驚きました。なぜならこれは盆灯提(ぼんちょうちん)だったのです。先生は子供たちにこの灯提を賞品に差上げたかったのでした。


 八月の夏休みも終り、九月一日あの恐ろしい関東大地震があったのです。頂度昼食前でした。何とも表現しようのない気味悪い恐ろしい地鳴りがしだしたと思うと同時に、アッという間に体をほうり出す程の上下震動が始まり、唐紙(からかみ)、戸、障子(しょうじ)は一度にパタパタ倒れ、壁は落ち部屋中は土ぼこり、家具は倒れ、重ねられた品々は座敷に散乱して見るかげもないありさま、しかも地鳴りは止(や)まず、地震は揺れ続いて途切れないのです。


 家の前の道を逃げてゆく人々の足は地揺れのために足をとられて進めない様子です。その状態は頂度つり橋を渡るのに橋が弾(はず)んで渡れない人のように、立ち上っては転び、転んでは立ち、あせる程に歩けない状態でした。人々は屋外に逃げだし恐ろしくて家の中には、いられないのです。


 夜は庭の立樹の下に畳を置いてそこで過したのです。人々は無言でオロオロするのみでした。この時私の頭をかすめたものは、これが聖書が教えている世の終りの状態であると思い、只々主の名を呼び続けました。


 二日たち三日たち同じ状態が続き、誰一人生きた心地などありません。五日目頃から東京で地震に会った被災者達が恐怖と飢えのために、死人のような顔色と乱れ切った髪で焼けぼこりを一杯あびながら、着のみ着のままの姿で八王子に逃げて来始めてまいりました。東京の地震とそれに加えて火災、多くの死人の出たことなどの噂(うわさ)が聞え出してきました。



 その時私は、教会はどうか、またウェングラー先生はどうかと心配になりだし、女の外出は止められていましたが、一里程離れている追分町の教会にお尋ねしました。ところがウェングラー先生は横浜に住む友人の宣教師たちを案じて、そちらに行かれた後でした。先生は幾日か後、被災者の友を三人連れて帰ってこられました。先生は震災の翌年アメリカに帰国されました。その留守の間に米国からデスリーヂ先生が八王子教会にこられたのです。



坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

 

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。