モーセの十戒に学ぶ (4)

2004年4月1日発行 通巻第583号

サンライズのぞみ教会 三上 友通  Tomomichi Mikami

 

 

 

 

 

《第三戒》

 「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」
 (出エジブト記20:7) 

 

 戒めは覚えやすいように短くなっていますが、7節全体は、次のようになっています。
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」
最後の部分に、「罰せずにはおかない」とあるので、少し怖くなりますね。しかし、愛の神さまが私たちにくださった戒めですから、素晴らしい意味があるにちがいありません。

主の御名

 主の御名は、何というお名前なのでしょう。モーセがエジプトに遣わされる折に、モーセが主の名を伺(うかが)った応(こた)えに「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)と主がおっしゃいました。その「わたしはある」からヤハウェが使われるようになりました。しかし、聖書を書き写していた学者たちは、みだりに主の名を唱えることを恐れてか、声を出して読みながら書き写していましたが、「ヤハウェ」のところに来たときには、「わが主(アドナイ)と発音しながらヘブル文字の子音「YHWH」の4文字を書きました。そのうちに母音が書かれていない「YHWH」をどのように読むか、誰にもわからなくなってしまったようです。

神さまの意図?

 みだりに唱えて罰せられることを恐れ、主の名がわからなくなることは、神さまが意図されたこととは思えません。唱えることが、いけないのではなく、みだりに唱えることを禁じています。では、「みだりに」とは、どのような意味でしょう。「虚しく」とか、「無意味に濫用する」ことが、みだりにということを指しているようです。

 時々、熱心にお祈りをしている方が、「主よ」と連発しているのを耳にすることがあります。例えば、「主よ、私が、主よ、今、主よ、生かされていることを、主よ、感謝します、主よ。」といった具合です。お祈りしている本人が、主を求めていて、そのように祈っているのであれば良いのですが、単に習慣でそのように祈っていると、無意味になっているのではないでしょうか。

 主の本当の名前をみだりに唱えなければ良いという問題ではありません。私たちの信じている神さまを示す、「神さま」「イエスさま」「主」などを、人々が聞いて、虚しく感じるような使い方は、控えるべきでしょう。

主との関係を表す

 私たちが、主の名を口にする時、私たちと主との関係が表されています。私たちが主と良い関係を持っているならば、主の名前を使う時、他の人が聞いていて、主は素晴らしい方なのだと思われることでしょう。しかし、主に対して少し不満を持っている時に主の名前を言うと、聞いている人に、主はどのような神なのかと不信を感じさせるかも知れません。

 父なる神さまは、一人子なるイエスさまを、私たちの身代わりにして十字架にかけるほど、私たちを愛してくださいました。それほどまでに私たちを愛してくださる主の御名を敬愛の心なくして口にすることなどできないはずです。

 しかし、私たちの弱さのゆえに、主の名を虚しく響かせることがありえるのです。

第三戒を積極的な言葉で

 「主を心から愛して主の御名をたたえましょう。」または、「御名、があがめられますように。」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 私たちが、主の名を聞くときに、死に打ち勝ってよみがえられた主の栄光、命をも捨てて愛してくださった大きな愛、全てを支配されている主の権威、おことば一つで何でもそのようになる強い力を感じるならば、どんなに幸いでしょう。

 私たちが、主の名を心から賛美するならば、人々は主の栄光を見、主の力と愛を感じることでしょう。主を愛し仕える者として、御名があがめられるように、私たちのくちびるで主の名を唱えることができるならば最高の幸せです。