坂本キミ「私の生涯の回想記」(第5回)

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教団ニュース・アッセンブリー 1978年3月1日発行 通巻270号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

『献身・神学校入学』


 大正十五年にウェングラー先生は米国より再び来日され、八王子市追分町に住まわれたのです。それでデスリーヂ先生と若いお二人の伝道師とは立川市に引越しになり、この町で伝道を始められました。その頃私の家は仕事の都合上、八王子市内に移ることになったのです。ウェングラー先生は落着かれると早速 日曜学校伝道、路傍伝道にと熱心に働かれました。日曜学校は私が受けもちました。路傍伝道では先生の切々な祈りがあり、その後賛美したり、証しなどして人々に訴えました。今考えても感心する程よく集りました。


 当時は見るもの、聞くものも全く無い時代でしたから大鼓の音、賛美の声を聞いただけでも人は集りました。屋内集会には英語を習っている人がお手伝いしてのお話しでした。



 その年のクリスマスには先生が米国からおもち帰りになったクリスマスツリーが、それは見事に飾られました。誰でもが始めて見るクリスマスツリーでした。教会の前のおばあさんはこのツリーを見て「教会の神様は何ときれいな神様でしょう」と拝(おが)んで行きますので、先生はその後ツリーは飾りませんでした。人のつまずきになってはいけないからというお考えでした。


教会ではクリスマスの日をどんなに楽しんで待った事でしょう。今までに全く知らない事柄だったのですから…。




 ところがその二十五日に、かねてから病気と伝えられておりました大正天皇がお隠れになり、国中が喪(も)に服す事になりました。したがってクリスマス礼拝はできましたが、祝賀はできませんでした。この日で大正時代は終りまして昭和元年となり八日間で昭和二年となったのです。この年の春デスリーヂ先生は立川市にべレヤ聖書女学院を開校されました。
 神の召命を固く心に受けていた私は時が来た、と飛び立つ思いでした。
 
 しかし私は兄姉なしの一人娘なので家を継がなければならないのです。そして当時、おじ、おば、それに父は先祖代々からの寺の壇家役員でした。まずい事にこの寺が教会の近くにあり、路傍で大鼓を打って賛美しながら子供達を集めに行く日曜日の朝の光景は、当時の静かな町中で知らないはずがありません。坊さんにしてみれば自分の寺の相談相手にしていた役員の娘がキリスト教伝道のために、ましてや女だてらに大太鼓を朝早くから叩き廻ることは、全く許せないこと、先祖に対して相済(あいす)まんことでありました。ましてやキリスト教に献身する私の決意を聞いて苦々しい思いの坊さんは、坂本一家の親族会議に加えられて遂に私に対して不心得(ふこころえ)を説得するのです。おじたちは怒りのあまリ御先祖の前に謝(あやま)れ、詫(わ)びよと私に迫(せま)りました。先祖から日蓮宗である坂本の後継人たる者が、外国の宗教はもってのほかと大変な騒ぎです。両親も私の献身ともなれば大変です。
 しかし、私はふしぎな程に平安でした。救いをはっきりと体験していたからです。


 サムエル記上二十八章八節より記されているサウルが口寄せの女によってサムエルの霊をよび、敵軍ペリシテに対しての負け戦(いく)さに対して助けを求めている所がありますが、日蓮宗も悪霊の力で口寄せして先祖の霊を呼んで話すのです。その話したるや全くその人のありし日の話し振り声そのままなので、人は信じてしまうのですが、そこに救いが全くないことは言うに及びません。私は救われる前にはこうした状況に接したのでよくわかります。
 私は両親やおじ達にいいました。
 「今はキリスト教に入って日が浅いので信仰について充分な説明はできません。でも少し分ったことは…」といって神・罪・救いなど入信に至ったキリスト教教理のABCを聞かせて最後に「そして今や私の心は喜びでいっぱいなのです」ただそれだけ言ってあとは一言もいいませんでした。彼らはじっと聞いておりました。


 私はこの話し合いを、きっかけに神学校に入学することを切り出して準備を始めました。ついに全能の神様は困難の中に道を与えて下さいました。その年の六月に神学校入学を致しました。


坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

 

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。