2002年3月1日発行 通巻第558号

Ⅲ.社会に見る中高年の生き生きライフ

《執筆者:アッセンブリー新潟キリスト教会 土屋 潔》


  私が献身前に会社に勤めていた頃の話です。
 Fさんという上司がおりまして、その方はとても仕事(営業)ができ自信に満ちておりました。あるときのこと、営業部署での飲み会に4次会まで付き合い、そして10人が4人までになったときに彼は「おい土屋!呑み助の気持ちがわかるか。呑み助はな、君のようにウーロン茶でもいい、とにかく俺の愚痴を聞いてつきあってくれるだけでいいんだ!」 普段の彼はどこにあるのかと疑うほどに会社に、上司に、顧客に、そして奥さん(スチュワーデスをしていたときに、Fさんが押しの一手でゴールイン)に対して愚痴っていたのです。

Vol.3

 酒宴上のことですから多くの人がしているワンシーンでしょう。しかしここに「生きがい」における病巣があるように思えます。その延長線上として定年を迎える濡れ落ち葉症候群(何をしてよいのか分からずに奥様にべったりつきまとってしまうライフスタイル)に陥ってしまい易いのです。しかも気をつけなればならない事にクリスチャンであるあなたも例外ではないかも知れません。

 インターネットで「中高年」 を検索しますと、新たに始める体験学習的なものと健康に関してのホームページが大半でした。いわゆる余った人生をいかに大過なく送るか、その方法論が目立っていました。

 『主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。…平安を与えようとするものであり、あながたに将来を与え、希望を与えようとするものである。』

(エレミヤ書29:11)
聖書によって知ることは、私たちの生きがいとは神様からの計画を持つことです。

 エレミヤ時代のユダヤ人にとっての希望(→生きがい)は、万国に散らされた同胞たちが呼び戻されることでありました。それは換言(かんげん)すれば本来の自分への回復(アイデンティティー)であり、存在意義(→生きがいの源流)の発見なのです。神なくして生きがいなど存在しません。なぜなら、人は神の被造物であり神の息吹によって生きたものとなったからです。また神なくして悔いなき人生は持つことができないのです。神を知ることは計画を知ることであり、そしてそれは最高のライフスタイルを形成することです。

神は私たちに二つの社会を与えておられます。

 それは、獲物を獲得してくる社会であり、一方、共に分かち合う家庭という社会です。古代での狩猟民族か農耕民族の違いはあっても人は常にこの二つの社会の中で生きてきました。
 
 見方を変えれば、この二つの社会はどちらも生産的な社会です。獲物(経済)をどれだけ他よりも多く獲得できるかのための生産性と、必ずしも物質的ではなくてむしろ― 愛 ―という非物質的なものを高めあうという生産性です。そして家庭が優先尊重されてはじめて、人は外の社会にあって辛く悲しいことに遭遇しても希望を失わずにおれるのです。

 ドイツの実存主義者(デンマークの神学及び哲学者キェルケゴールに端を発する「人はいかにしてキリスト者になるか」という問を生涯の課題とした)であり信仰者であったカール・ヤスパースは「生きるに値する生」の尊重を唱えました。彼は、人間の条件として動物的に単に生きるのではなくて、私たちの未来がたとえ悲観的なものであろうとも、希望を持ち続け、かつ人を信頼し続けることが肝要であると記し、つまり、常にありのままの自分を他人に開いておくという勇気と強い意志だけが、開かれた人間関係、さらには開れた寛容な社会の実現を可能にすると論じたのです。また、どんなに不寛容・暴力的な相手に対しても対話の可能性を信じ、常に相互理解とより包括的・普遍的な合意を目指す努力を怠ってはならないと論じたのでした。

私たちクリスチャンの神から託された希望は、まさに不寛容な社会の中での個人の回復であり、加えてこの社会全体の神への回復なのです。

 常にありのままの自分を他者に開いておくことが求められますし、それが醸成(じょうせい)される場が家庭なのです。あなたは妻(夫)と子どもたちと顔を向けて、心を向けて対話をされているでしょうか。
 

『その時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。』

(Ⅰコリント3:12)

 家庭の中で、私たちは自分を、心を自由に開くことで外に対して力強く関わることができるのです。即ち、自分を失わずに希望を抱き続けられるのです。その決め手は神と顔をあわせる(→祈り)ことからです。Fさんのように懸命に生きたく願っている人でも愚痴が心のおりものになっている社会の数多くの人々に対して、あなたの証(使命)は、あなたが神に顔を向け与えられた家族に顔を向けることから得られる力によって生きる姿にあるのです。そしてこれこそがクリスチャンである私たちの生きがいでもあるのです。