『とりなして祈る』

新・祈りのコラム(20)

月刊アッセンブリーNEWS  2016年 3月号

嘉手納アッセンブリー教会 

神山茂紀
Shigenori Kamiyama

とりなして祈る

 私たちの信仰生活において最も大切なものは祈りであると言えるかもしれません。祈りは魂の呼吸であると言われるほど、習慣として、または当然のものとしてなくてはならないものであるでしょう。

 私がここ数年大切にしていることは、とりなしの祈りです。聖書の中に『そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。』Ⅰテモテ2・1(新共同訳) このように書かれています。私はとりなして祈る時、教会の愛する兄弟姉妹、求道中の方々、家族、先生方等、思い起こすことのできる限りの方々の為に祈りを捧げます。その中には、国のリーダーである総理大臣の為に祈ることもあります。しかし、私がとりなしの祈りをここまで大切にするようになったのは、あるひとつの出来事があったからでした。

 ある日、自宅の書棚を整理していると、すでに召された父が愛用していた「祈りのノート」が出てきました。そこにはたくさんのとりなしの祈りの項目があり、その中には救いの為の祈りのリストがありました。そこにあげられている名前を一つ一つ見て行く中で1人の方の名前に目が留まりました。なんとそこにあった名前がそのノートを見つける1年程前に救われ洗礼を受けた方の名前だったのです。20年以上も前に父がとりなして祈っていた方が救われたということを知った時、何とも言えない感動が心の底から沸き起こってきました。それ以来私の中で、日々のとりなしの祈りの大切さを感じながら祈り続けています。

 私たちが心からとりなして祈る時、神様は一番良い時に、主にある最善の方法で必ず応えてくださるお方です。これからも、とりなし手として、主と共に最高の人生を歩み続けます。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』伝道者の書3・11(新改訳)