『お祈りします。』

新・祈りのコラム(19)

月刊アッセンブリーNEWS  2016年 2月号

杉田キリスト教会 

久保田 顕
Ken Kubota

「お祈りします。」

 昨年の秋に教会にある椅子に足を勢いよくぶつけました。その週の祈祷会で少し場が和むようにとその失敗談を話したのですが、集会後にある方が「お祈りします。」と声をかけてくださいました。足が腫(は)れていたこともあり、その3日後に病院に行くと医者から「折れてそうですが、捻挫(ねんざ)ですね。」と言われ、安心しました。そして翌日の礼拝後にその信徒の方から「足は?」と聞かれ、私は「安心してください。折れてませんよ(笑)」と冗談交じりに答えましたが、さらにその数日後に「足は大丈夫?」と心配してくださいました。ずっと私の足のために、自分の事のように祈ってくださっていたのです。

 この時に考えさせられました。私は祈りを必要としている方に「お祈りします。」と声をかける事がありますが、一体どこまで誠実に祈りの要請に応えて ‘とりなしの祈り’ をしていただろうか、また日々の生活の中で、どれだけ他者の ‘一人一人のため’ に時間を使い祈っていただろうか。ちゃんと出来ていると胸を張って言えない自分に気づかされ、牧師として恥ずかしい思いになりました。

 聖書の中に登場するアブラハムが、ロトの住むソドムの町が滅ぼされないように何度も主に祈った箇所(創世記18章)があります。どれだけ長く祈ったかは分かりませんが、アブラハムは自分の事のように、他者(ロト)のために祈りました。とりなしの祈りの重要性はここにあると思います。

 その一件があって以来、少しでも理想とするとりなしの祈り手となるため、携帯電話に祈祷課題を記しています。祈祷課題を携帯することで、内容を忘れず、いつでも祈ることができるからです。これからもさらに、友の良き祈り手となれるように主にお祈りします。