礼拝の中の賛美(2)

細井 眞  Makoto Hosoi(十条基督教会)

2000年5月1日発行 第536号

 ある時、私は数人の先生とキャンプの下見に長野方面に行きました。白樺湖にあるホテルに寄ったとき、そこに素敵なチャペルがありました。案内をしてくれたホテルの方は私たちが牧師だと聞くと「このチャペルには中身がないんですよ。」と言われました。私は「なかなか分かっていらっしゃる。」と心の中で言いました。

神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
 (ヨハネの福音書4章24節)

 聖書は私たちがどのように礼拝すべきか記しています。神は霊的な存在で場所を越え、時間を超えて存在されます。言い換えるなら、特定の場所、特定の時間にしか存在しないお方ではなく、あらゆるところに、あらゆる時に主はその存在を現されるということです。
 
 私たちの教会に主はおられますか。
 私たちの礼拝においてこのみことばは成就していますか。

 私たちが礼拝をささげる上で最も大切な要素は主の臨在です。私たちは礼拝の中で主の臨在を求め、主の臨在の現実に直面する必要があります。その時、私たちは主にお会いするのですから、私たちは表面的なものだけを整えて礼拝することは出来ませんし、形ばかりのものを主にお捧げするわけにはいきません。神の啓示が現実であることを覚えて、十字架と復活のキリストにお会いするのですから、へりくだって、御前に出なければなりません。

 では、どのようにしたら主の臨在ある礼拝が捧げられるのでしょうか。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

(詩篇22篇3節)

 私が20代の時、アメリカのサンノゼのクリスチャン家庭にホームステイするというツアーがありました。私は教会の兄弟姉妹らと共にこのツアーに参加しました。

 私のホストファミリーのご主人、ジョーさんはわざわざ仕事の休みを一日取り、大きなバンを借りて、私とツアーのメンバー7人をサンフランシスコ観光に連れていってくれました。一日中動き回ったので帰りの車の中で皆寝入ってしまいました。起きているのは私と運転をしているジョーさんだけでした。私は後ろの席で話し相手もいないので、賛美の歌を歌い始めました。まわりの人が起きないように小さな声で、鼻歌まじりに思い出す歌を次から次へと歌い始めました。当時よく歌っていた「日の昇るところから」とか「主を待ち望むものは」等の曲を歌っていました。どのくらいの時間が経ったかはわかりません。突然、濃厚な主の臨在がやってきました。目から涙が溢れ、鼻水は止まらず、ハッキリとした異言で祈ることもできないほど畏れおののいていました。主がそこにおられることを知り、そして、主の十字架の愛を痛いほどハッキリと覚えさせられました。私は座席に着いたままでしたが、ひれ伏したい思いでいっぱいでした。全くつたない賛美の歌であったにもかかわらず、主はご自身を現してくださったのです。

 私たちが賛美し始めると、そこに主が臨在されるのです。何と素晴らしいことでしょう。私はその時から礼拝での賛美の態度が大きく変わりました。鼻歌まじりではなく、心から主を求め、主に賛美をささげるようになったのです。

 主は真の礼拝者を求めておられます。主はその礼拝者に豊かな臨在を現してくださるのです。