『夜もふけるままに
神を思う祈り』
「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたそ深く思うとき…」(詩篇63:5)
この詩篇は表題通りとみるなら、ダビデが最愛の息子アブサロムの反逆を知って、命からがら裸足でわずかな部下と共に王宮を説出し、ユダの荒野をさまよう場面が背景になっています。
月刊アッセンブリーNEWS
1994年4月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「夜もふけるままに神を思う祈り」
ユダの荒野は死海付近の、文字通り広漠とした荒野で、時によっては日中50度を越える焦熱地帯ですから、その中をうろうろするダビデ一行の労苦は並大抵のものではなかったはずです。その上、全幅の信頼を寄せていた知謀の将アヒトペルの裏切りのニュースが届き、ダビデを狼狽と落胆の極みに追い込みます。それは、ダビデにとって人生一最悪の日でした。しかし、その中でダビデは「神よ、あなたはわたしの神」と呼びかけ、「わたしは切にあなたをたたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む」と叫びます。ダビデにとって肉体的かわきや逆境の問題よりも、魂の問題の方が重要でした。
ここに祈りの原点があります。最近特に祈りの重要性が強調されるのは素晴らしことですが、ともすると、その祈りが何かの実現のための手段のようになってしまって、析りの効果や結果が重視されがちです。もちろん救霊、魂の癒し、リバイバル、問題解決などの為にも祈るべきです。しかし、祈りとは本来神との会話であり、交わりなのです。
ダビデはこの祈りの本質をよく理解していた信仰者でした。ダビデはアブサロムのために嘆き、アヒトペルの策が愚かになるように訴えました。しかし、ダビデはユダの荒野の真中で「わたしが床の上であなたを思いだし、夜もふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り」ると語ります。床の上で祈っているうちに心が喜びに満ちて、神への思いで一杯になり、時間のたつのも忘れてしまいます。粗末な寝床は神の臨在の場となり、自らの不幸感は、霧散してしまいます。
私達はまず、何より祈りによって神との会話を楽しむとき、ダビデと共に「わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる」と心から叫ぶことができるのです。ここに祈りがあります。
《執筆者》
久保田 潔
杉田キリスト教会 牧師