「祈りの雑感」

1.真実をもって祈ろう

 クリスチャンの慣用句に、「祈っています」とか「祈って下さい」という言葉がある。私も色々な場面で使い、祈り合うことの素晴らしさを体験している。ところが、時に挨拶代わりに交わされて、真剣に祈ってもいないのに「祈っています」と言い、期待もしていないのに「祈って下さい」と言葉だけが先行していることに愕然とする事がある。「祈ります」と言ったからにはとことん祈りの手を挙げたい、「祈って下さい」と言ったからには結果を報告するくらいの真実さを持ちたい。

月刊アッセンブリーNEWS
1998年5月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「祈りの雑感」

2.自分なりの祈りを確立しよう

 日本のクリスチャンは、祈りが足りないと言われて久しい。祈りが足りないから、神のみ業が起こらないと言われると返す言葉もない。そのために慢性的な祈りのコンプレックスに陥り、「まだ足りない」と自分の不足を恥じるかと思えば、他方、人と較べて自分の祈りを誇ることも起こってくる。祈りが本来神との交わりであり、極めて個人的なものであるのに、周囲との比較や評価や体面のみにとらわれることは愚かなことである。早天の祈りであれ、断食の祈りであれ、自分が定めた時と場所であれ、喜びをもって神と交わる祈りを確立しようではないか。

3.神の御心を求めて折ろう

 私たちの日常には、数多くの祈りの課題がある。約束を信じて祈ることは、クリスチャンの特権であり、責任でもある。祈りが熱心になればなるほど、懇願の祈りが多くなってくる。「祈ればかなえられる」とばかりに、ひたすら祈りに専念する。つい、神の御心を問うことをしないで、ただ自分の祈りがかなえられるようにと、自己実現のための祈りを繰り返してしまう。主がゲッセマネの祈りで、自分の願うことを告白しながらも、「あなたのみこころのように、なさってください」と祈り、現実を受けとめていった姿に学びたい。
 私共の教会では、4年前会堂建設が決議されたが、思うように進展せず、今なお苦闘中である。金曜日を会堂建設のための集中祈祷日として、教会員全員が連鎖祈祷を続けている。

《執筆者》

楠橋 清隆

加古川福音キリスト教会 牧師

2016年3月召天