「執拗な祈り」

 「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

 ヤコブは、かつて兄エサウをだまして、神の祝福を奪い、兄の怨恨をかい、家から逃げ出しました。後年、神の命令で兄のもとへの帰途につきます。不安が彼の心をよぎったことでしょう。もしかしたら兄の報復にあって、殺されるかも知れません。冒頭の言葉は、その途上、ヤボクの渡し場におけるヤコブの格闘の時のものです。彼は必死に祈ったことでしょう。そして、ついに祝福を得ることが出来、神との出会いの体験をしたのでした。

月刊アッセンブリーNEWS
1997年6月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「執拗な祈り」

 信仰生活における祈りは、ともすると割り切った祈り、淡白な祈りに陥り易いのですが、必要なのはヤコブの様な祈りでしょう。

 私たちの教会に、一人の婦人が居りました。夫は幼い子ども二人を残して先立ち、女手一つで子どもたちを育てましたが、大変な苦労の中、生活の為、必死に神に頼り、祈り働き続けました。妹娘の方は信仰を持ちましたが、長男は早くから自立して別に暮らしており、神の無い生活をしておりました。この婦人の願いは、長男の救われることでした。実に長い間、あきらめずにイエス・キリストを信じるように祈り続けておりました。彼は会社では責任ある地位におりましたが、この婦人は「世の中で偉くならなくてもいい。あの子が信仰を持って先生の働きを助けてくれたらと祈っているのですよ。」と口癖の様に言っておりました。しかし、彼は信仰を持ちませんでした。そして、この婦人は、75歳のこの世の生を走り抜き、天に召されたのでした。

 ところが、葬儀の時、奇蹟が超こりました。彼は、イエス・キリストの恵みに支えられて生きた母の生涯に触れ、今までの神を無視した人生を悔い改め、キリストを受け入れたのです。実に感動的な葬儀でした。息子の救いの為に祈り続けた末、祈りは聞かれ、信仰のバトンタッチがなされたのです。

 執拗な祈りに、神は明確に答えて下さるお方なのです。

《執筆者》

木下 重夫

八王子シャロン教会

2021年3月 引退