「祈りの基」
ある時教会に来ている中学生が、講壇脇に掲げてある『いつも喜びなさい』という御言葉を指して、「あれは、うそっぱちだ」と叫びました。訳を尋ねると「その通りしようとしたけれど、ちっともいいことがないもの」という返事。なるほど、この子たちの持つ世の宗教観をわかりやすく物語っているなと思わされたのです。
月刊アッセンブリーNEWS
1996年6月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「祈りの基」
旧約聖書で、正しい人ヨブについて、サタンは神様に「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか…。御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」とそそのかしています。物質的祝福なくして何のための神様…。それらが取り去られたら、人は神様を呪うに違いないと…。 そしてこれが私たちの生きているこの世界の宗教観で、祈りは、苦痛によるよりも、ここで留められることがあります。
初めて私がこのヨブ記を読み終えた時、非常に釈然としない気分を味わいました。ヨブが受けた『苦痛の意味』を神様は最後まで説明されなかったことが不可解だったのです。
私たちの苦痛や苦難の中からの祈りは、問題の解決を求め、「何故ですか」という『苦痛の意味』を知りたいというものでしょう。さて、皆さんは、その『苦痛の意味』を明確に知り得たでしょうか、そして安息を得たでしょうか。
このヨブ記の最後に、ヨブは神様の語りかけを聞きます。厳しい言葉です。しかしそこで彼は非常に感動し、喜び、安息を得ました。それは、問題が解決されたからではない。また、『苦痛の意味』を明確に知り得たからでもないのです。何よりも神様の臨在がそこにあり、そしてその方がヨブを無視せず、関心を持たれていると知ったからにほかならないのです。
これがヨブにとって、何よりも素晴らしいものであったように、私たちの祈りと礼拝の生活の中で、どんな時にもこのお方の臨在を認め、仰ぎ見つつ歩めることが、かけがえのない祝福であり、祈りの基なのです。
「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、あなたを仰き見ます。」
(ヨブ記42:5)
《執筆者》
片平 勝
三田キリスト伝道所
(現在は都島中央キリスト教会に転任)