祈りのコラム (33)

「祈りの基と情報」

 このところ数ヵ月の間、祈りと情報について考えさせられることが続いた。身近の人々が病に冒されたからである。

 そこで、問題になったのは、病状をどこまで皆に知らせる必要があるかどうかである。牧師は医者ではないし、医学知識も限られている。情報も家族からの間接的なものであり、またその情報自体がプライバシーに係わるものであり、場合によってはその人の社会的地位に影響を与える場合もある。

月刊アッセンブリーNEWS
1996年9月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「共に成長するために」

 ある一部の人は祈りのために窮状を細部にわたって聞き出そうとされた。しかし、教会は曖昧な情報や個人のプライバシーに何でも答えるわけにはいかないので、対応に苦慮したことを覚えている。

 確かに情報が多く正確であれば私たちはそのために祈ることが容易であり、熱心に祈ることができる。しかし、そのことが本当に神に聞かれるための祈りとして必要であろうか。

 祈りの基、その根拠はどににあるのであろうか。聖書によればそれは神の私たちに対する要求にある。神が私たちに祈ることを何よりも求めておられる。

 「悩みの日に私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私をあがめるであろう。」(詩篇50:15)
 
 私たちの祈りの唯一の理由(根拠、基)は、神が祈ることを欲し、祈りへと招き、命じておられるからである。私たちはこの神の意志に喜んで服従する。祈ることは服従である。ある神学者は祈りを「キリスト教的な服従の大いなる原型」と呼んでいる。

 今回、私たちが祈ることに人間的に容易であるために必要以上の情報を求めていないだろうか。情報の量や確かさで祈りが聞かれるのであれば、医者が祈るのが最も効果的である。しかし、神こそ全知である。旧約時代のイスラエルの民も初代教会のキリスト者も現代の医学や情報手段ももってはいなかった。しかし、神は披らの祈りを豊かに聞かれ癒しや奇跡を行ってくださったのである。

 変わることのない神御自身に期待しようではないか。

《執筆者》

井野 正人

横田キリスト伝道所
(現・西多摩キリスト教会)
牧師