祈りのコラム (32)

「共に成長するために」

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」。
(マタイ18:20)

 1964年1月、17歳の時、高知の教会で洗礼を受け「大感激」した私は、家族・親族・町ゆく人など手当たり次第に教いの喜びを伝えたものでした。

月刊アッセンブリーNEWS
1995年9月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「共に成長するために」

 同年4月高知の母教会から遠く離れた郷里である、当時は教会がなかった中村市で働くことになった私は「一人で主を礼拝し、立派に信仰生活を守ってみせる」と気張りましたが、半年後にはとてもクリスチャンと思えない惨めな生活に陥り、約三年半過ごしてしまいました。

 教会に復帰した時、敗北生活を反省してみますに、①近くに教会がない。②信仰が未成熟。③意志が弱い。④決心が中途半端…等が浮かびましたが、主原因は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所に…」と聖句にある「キリストのからだなる教会から離れていたため」と気付きました。

 私は自分の意志が脆弱だと思う時はありますが、皆の中では並程度と思っていました。しかし、悲惨な生活は明白な事実でした。

 この結果から、だれでも一人ぼっちの信仰生活は想像以上に困難で並の人には不可能に近いことだと気付かされた私は、この問題解決のために「①経済的・肉体的・精神的な犠牲を払っても、聖徒との交わりを保ち孤独なクリスチャンにならない。②信徒や求道者に気配りして、共に学び・祈り・証ししあうために一部屋を聖別開放し孤独なクリスチャンにさせないと決心しました。

 この決心が「実践できた」とは口が裂けても言えませんが、もし、日本中のクリスチャンたちが「共に成長するために」との祈りと願いをこめて、ご自分の家庭の一部屋一隅を聖別開放する程度の小さな献身を始めるなら、主は大きく用い豊かに成長させてくださるでしょう。

 主はことの大小ではなく「愛する隣人」のために、真剣に祈り、踏み出す人を求めておられるのではないでしょうか。

《執筆者》

竹中 通雄

土佐清水キリスト教会
牧師