「神の心を知る」   

 ある年輩の外科医が牧師から「手がきかなくなくなる時を心配したことはありませんか」と聞かれた。彼はちょっと考えてから「それはありませんね。でも正直のところ心の方が患者さんの痛みを感じなくなる日が来るのでは、と心配することはよくあります」と答えたという。

月刊アッセンブリーNEWS
1992年 1月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「神の心を知る」

 神の恵みから離れ、みことばと御霊の力を受けなくなると、私たちは高まんになり易く、物質のとりことなり、不道徳な行為に走りやすくなる。
 
 現代こそ私たちは神の心を知り、神の意志と方法と働きを知らなければならない。私にとって神の心を知るとは、神の全能、全愛、全知、永遠を知ることであり、その変わらざる存在、知恵、力、聖潔、正義、いつくしみ、まことを知ることである。
 
 神の無限の愛を知る「神は愛である」は聖書最大の宣言である。神の個人的愛をもっとも強くおぼえるのは、十字架を仰ぐときである。主は単に人類全体のために死なれたのではない。パウロがガリラヤ2:20で書いているように「この私を愛して、私のために」死んでくださったのである。

 神の比類なき恵みを知る。恵みは無限である。その恵みの泉は父なる神であり、恵みとまことに満ちた管は子なる神であり、神の恵みを私たちに実現させる方が聖霊なる神である。パウロは神の驚くべき恵みのあらわれを ①謙遜な恵み(Ⅱコリント8:9) ②力を与える恵み(同9:8) ③支える恵み(同12:9)と語っている。
 
 神の激しいあわれみを知る。なぜ神は苦しむことを選ばれたか。神の限りない同情のゆえである。同情とは「共に苦しむ」ことを意味する。エレミヤは、「ああ、わたしの頭が水となりわたしの目が涙の泉となればよいのに」(9:1)と祈った。この執り成しの祈りこそ神の心であり、キリストの心である。

《執筆者》

レイモンド・カールソン

米国アッセンブリー教団総理
(当時)