「祈りの回復」
牧師になって四年目のことでした。いつの間にか祈りが義務的になり、祈りの時をただこなしているような自分に気付きました。牧師として、教会員の祝福のため、教会の成長のため、地域の救いのために…と課題を挙げて祈るのですが、何時間祈っても祈った気がしない、神様と自分との間にカーテンでもかかっているような、そんな思いに駆られる毎日でした。いつのまにか祈りが職業的(?)なものになっていました。牧師だから祈らなくては…と思っていたのです。牧師であろうとなかろうと、神様は私たちクリスチャンに交わりを求めておられます。そして私たちは、その神様との生きた交わりが途絶えてしまったならば、魂は枯渇してしまいます。まさにその当時の私はそんな状態でした。
月刊アッセンブリーNEWS
1999年 6月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「祈りの回復」
このままいったら、自分は霊的に死んでしまう! そんな危機的な思いをもって、リバイバルの中にある教会や、集会に参加しました。その中で徐々に霊的な飢え渇きが満たされ、神様との交わりが回復していきました。父なる神様の愛がまさに身体で分かり、その神様の愛を分けてあげたいという思いが沸き上がってきました。それと共に、とりなしの祈りについての認識が変えられていきました。
あの信徒のため、この人の救いのためにと、時には一生懸命、熱心に、床を叩きながら…そして時には非常に淡々と義務的に祈ったあの頃の祈りは、教会へのわたしの愛、思いから出ているものだったのではないか。もちろん神さまはそのような祈りも喜んで受け入れてくださったけれど、何か肉の熱心から出ていたように思います。
聖霊に委ねて祈る時、内から込み上げてくるような呻きをもって、とりなし祈らされる事もあります。けれどもまた、たった一言の「イエス様は完全な医者だから、癒してください。」という祈りが応えられ、癒されるという経験もさせていただきました。もっともっと祈りについて教えられたいと願う毎日です。
《執筆者》
細川 るり
(旧姓:山本)
西灘基督教会
(現在は千歳キリスト伝道所に転任)