「祈り」 

 私のクリスチャンライフ生活を振り返る時、長い時間落ち着いて祈るということが少なくなったことに気付かされた。私の思いを全てご存知であり、言葉で表現できないこと、また心の隅々まで見通しておられる神様とどのように長い時間祈ったらよいか思い悩むこともあった。

 

月刊アッセンブリーNEWS
1995年 12月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「祈り」

 福音書にイエス様が朝早く一人で祈られていることが記されている。また、私たちの手本であるイエス様が朝早く祈っておられるのだから、そうする事は大切であると聞いていた。しかし、夜型で低血圧の私は、朝早く起きるのは大変であり、たとえ起きたにしても「おいねり」になりかねない。それゆえ自分の都合のよい時間に祈ればよいと思っていた。神様はまどろむことも眠ることもないお方なのだから、いつまでもお祈りを聞いてくださるのではないか。

 「眠りを愛してはならない」(箴言20・13)とあるが、肉体が弱いのも事実である。アメリカに居た頃によく聞いたジョークを思い出す。「今日はベッドサイド・アッセンブリー教会に行って、ブラザー・ブランケット(毛布兄)とシスター・シーツ(シーツ姉)と共にパスターピロー(枕牧師)の元で礼拝するよ。」夜遅くまで起きていて、翌朝の一時間目にコーヒーのカップを片手に授業に出る神学生の姿がよく見られた。朝よりも夜を愛する人が多いということだろうか。

 ある時、自分の都合のよい時間が少ないことに気がついた。自分の考えを正当化していた私には祈る時間が少なかった。自分の都合のよい時間などと言っていたのは、祈りより他のことに優先順位をおいていたにすぎなかったのだ。

 夜早く寝て、朝早く起きるようにしてみると、なんと素晴らしいことか。一日を神様と交わって始められることの恵み。何にも変えられない。

 ここで私が本当に書こうと思ったことは、早朝の祈りが重要だということではない。何かにこだわり自分を正当化したり、自分勝手な信仰の姿勢をすることをすて、素直にみことばを実行し、積極的に神様中心に祈るという姿勢が神様に喜ばれるのではないだろうかということである。

《執筆者》

三上 友通

サンライズのぞみ教会