2004年12月1日発行 通巻第591号

サンライズのぞみ教会 三上 友通  Tomomichi Mikami

《おわりに…》

 十戒は愛の神さまが下さった律法の一部ですが、神さまの御意思が表わされた、人間が生きるための道徳的基本が示されたものです。

 

 イエスさまは、「一番大切な戒めは『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」です、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めも同じように大切です」とおっしゃいました。(マタイ22:37-40参照)

 イエスさまは、律法全体がこの二つの戒めにかかっていることを示されました。第一戒から第四戒までは、一番大切な戒めに要約されますし、第五戒から第十戒までは、その次の戒めに要約されるでしょう。本当に神さまを愛しているならば、安息日を守るでしょうし、主以外に神を作ろうなどと思うことはありません。イエスさまは愛を持って神さまの御意思に従うことを願われておられることを教えてくださいました。

律法と私たち

 私たちを本当に愛していてくださる神さまが律法を下さいました。私たちの行動に基準が設けられていることは幸いなことなのでです。公立の学校では、基準の無い道徳を教えなければならず、ご苦労されているようです。

 水槽に飼われている金魚が外を見て自由で楽しそうだと思い水槽から飛び出すと、苦しみ、間もなく死んでしまいます。私たちも律法がない方が、自由で良さそうですが、実は律法に守られているところがあるのです。

律法と愛

 律法学者たちはイエスさまを落し入れようとし、ある時、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言ってイエスさまを試みました。(ヨハネ8:3~11) もし、イエスさまが「赦してあげなさい」と言われたならば、律法学者たちに、「律法を守らないイエスは神から出た者でない」などと言われたに違いありません。

 また、ルカの福音書6章には、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで、手でもみ出していたことをパリサイ人に指摘された時、イエスさまは、ダビデの例をとり、おこたえになりました。その後、「安息日にして良いのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」とおっしゃって、手のなえた人を癒されました。

 イエスさまは律法学者たちから非難されましたが、罪人や、助けを求める人々を愛し、律法に縛られてはいませんでした。
 律法を破らないということにのみ囚われ、びくびくして生活をすることをイエスさまが私たちに望んでおられるわけではありません。むしろ神さまの愛を持って大胆に善を行うことを願っていらっしゃるのではないでしょうか。もちろん、律法を簡単に破っても良いという意味ではありません。

律法と自由

 私たちは神さまの下さった十戒にいやいや従っているというのではなく、神さまに愛されている者として、神さまを愛するがゆえに自分の自由意志をもって服従したいのです。とは言え、自分の力だけで従うことは、弱い私たちには不可能に近いです。「従うことが出来ますように」と祈り、主から力をいただいて、初めて従えるのです。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(ガラテヤ5:13)とあるように十戒に束縛されて生きるのではなく、主の愛の内に生き、喜んで主とみことばに従っていきたいものです。

 愛のゆえに、十戒をくださり、御子イエスさまをお送りくださった主の愛と恵みと平安が、このクリスマスのシーズンに皆さまの上に豊かにありますようにお祈りいたします。