神に語る幸い

教団ニュース・アッセンブリー
2003年9月1日発行 通巻第576号

信仰生活の中心

 キリスト者の生活は、祈りを中心として展開されて行きます。キリスト者の信仰生活は、その中心に祈りがあります。
 私たちの毎日の生活は、いやいやながら生きて行くというようなものでも、ただ惰性で動いて行くというものでもありません。祈りは、神との会話であり、交わりです。天の新鮮な空気を呼吸することでもあります。

執筆者 長澤 忠雄
熊本聖書教会 牧師
PRAY

祈りは魂の呼吸である

 「祈りは、魂の呼吸である」とよくいわれています。つまり呼吸をしない人間が死んだ人間であると同様に、祈りをしないキリスト者は成長しません。
 私たちは、よく考え、よく活動する時には、良い成果もあげます。しかし、魂は渇き、ますます疲労し、枯れてしまいます。これは祈りを失っているからです。牧師の私などは、この道に陥りやすのいです。人に教えながら自分が忙しくなり、呼吸困難になってしまいます。このように、祈りは、信仰に生きる人の霊的呼吸で、信仰に生きようとする限り、祈りを欠かすことはできません。

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祈りは神のわざ

 イエス・キリストは、「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」と言われているように、祈りは神の側から出発しています。
 私たち自身は、祈りをきいていただく資格はありません。しかし、「キリストのみ名」によって祈る祈りは、必ず神にきかれるのです。
 それは神の約束だからです。たとえ、祈ったままの形でなくても、真実な祈りは決して空しく終わることはありません。祈りの答えを忍耐深く待つなら、数年を経てその答えも経験できるのです。

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信じて祈る

 祈りは、全能の神に向かい、神の約束の言葉に従って祈ります。神は大きな熱意をもって与えようとされています。もし私たちが、捜し、叩き、求めるならば、与えられるのです。
 必要なものを求め、心の奥底から信じて祈るのです。祈りが答えられるのは、私たちが、口に出す祈りのことばよりも心の状態によります。問題は「信じます」といいつつも、神の中に自分をゆだね切れない「不信仰なわたし」をかかえている事です。そこで、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と、自分を神の力の中に投入する必要があります。

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信仰の量りに従った祈り

 大切なことは具体的に祈ることです。ある開拓教会の掲示板に、「一万人礼拝の達成」とありました。しかし、これはこのようになりたいと言う目標です。祈りとしては漠然としています。信仰の量に従った祈りが必要です。次の質問をしてみましょう。
 第一にどんな事のために祈ったか。第二に本当に信じたか。第三にそれが答られている自分の姿を思い浮かべることができるか、の三つです。必ず神がきいてくださると信じられることに絞って祈りだします。信じられない時は、修正をしながら祈ります。すると与えられた状況の中で、必ず神は答えてくださると、確信できるようになります。

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御霊のうめきによる祈り

 私は、癌の宣告を受けた方々、生死の境にある方々、のために祈る機会があります。どのように祈ればよいのか言葉を失います。サタンが最悪の状況を思い起こさせ、理性はうなずくのです。このような時に、異言の祈りをします。異言の祈りは、理性とサタンの邪魔を排除します。御霊も切なるうめきをもって、とりなしてくださいます。(ローマ8:26)

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