「主に用いられる人」

 「絶えず祈りなさい。」
    (Ⅰテサロニケ1:17)

  クリスチャンは主に用いられ、神の栄光を現わすことのできる幸いを、イエス様によって与えられている。
 しかし、主に用いられる人は、人間的能力や優秀さ、人柄あるいは信仰歴といったものより、その人がいかに主の前に祈る人であるか、という点が問われることを知らなければならない。

月刊アッセンブリーNEWS
1995年2月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

 「主に用いられる人」

 祈る人は、神のみ前にへりくだっている人である。祈る人は自分の能力によらず、神の偉大な能力により頼んでいる人である。祈る人は、神の御霊に満たされるので、神に用いられる人になるのである。その人は、リバイバルの業に役にたつのである。聖霊の力は即ち、祈りの力である。私達は、ペンテコステの恵みにある者として、いよいよ祈りに励む者となりたいものである。
 私達の教会では、「祈りは全ての奉仕に優先する。」との確信に立ち、開拓当初より祈ることに力を入れてきた。現在定例祈祷会の他に、「火曜リバイバル祈祷」「S・S一日断食祈祷」等、様々な形態の「祈りの細胞」を組織し、祈りに励んでいる。
 その中でも「早天祈祷会」は特に力を入れている重要な祈りの細胞である。この毎朝の祈りを通して、確かに神のみ手が動かされ、魂が導かれ救われ、多くの方々が聖霊に満たされてきた。また数々の困難に対しての解放の業が現わされ、教会が形成されてきたのである。
 何よりも共に祈っている一人ひとりの自我の城壁が崩され、肉の人が霊の人とされ、弱い人が強くされ、神に用いられる奉仕者となり、リーダーとなってきているのである。だからもし誰かが私に「リーダーを選ぶ基準は?」と尋ねるならば、ためらうことなく「それは祈りを全ての奉仕に優先させ、実際に祈る人です」と答えるに違いない。
 神は今日、御自身の前に全てを委ねてひたすら祈りに励む人を、そして祈りに励む教会を求めているのではないだろうか。

《執筆者》

伊藤 博

泉福音キリスト教会
牧師