三浦綾子の作品から学ぶ信仰(6)

『母』

  ~泣いてくださる方に出会う旅

月刊アッセンブリーNews 第735号 2016/12/1発行より

 『母』は『銃口』連載中盤の1992年3月、書き下ろし単行本として刊行された。夫 光世の求めで調査を始めてから約10年、パーキンソン病の予兆の中で、これで最後かも知れないという覚悟で言わば遺言として書かれた作品である。

 構想の中核はピエタの絵だった。三浦綾子はイエスの遺体を抱くマリアの絵に息子多喜二の遺体を抱く母セキを重ねた。癒えることのない痛みと悲しみの中で、母は妥協なく生きて愛して殺された息子を持つ親同士として、この悲しみを分かつてくださる方、涙をながしてくださる神に出会い、真のふるさとである天国へと、イエスさまに手を引かれてゆく。物語は、昭和三十六年四月、小林多喜二の母セキが小樽郊外朝里の部屋で自分の一生を語るという構成で綴られるが、その飾らない秋田弁の語りも大きな魅力である。

 明治六年、秋田の釈迦内に生れたセキは、十三歳で小林家に嫁ぎ、七人の子宝に恵まれた。明治四十年、長男多喜郎が小樽で急死。一家は小樽に移り、セキは餅やパンを扱う店を始める。工事現場の出稼ぎ人夫たちが涙ながらに語る身の上話を聴き、夕食時には子どもたちの話を聴く。夢中になっていて店の餅を盗まれた時も、セキは「盗んだんでないべ、なんぼか腹すかしてたんだべ」と教える。母にとっては泥棒も腹をすかせたいのちなのだ。いのちの声を聴く母に育てられた子どもたちも、似たものに育つ。

 多喜二は苦界で身を売る娘タミを救いだすが、二人は師弟のようだった。やがて、小説家として有名になった多喜二は東京に出てゆき、タミも後を追うが、危険な活動に身を投じる多喜二のせめて邪魔にならないことが恩返しだと思ったタミは、多喜二からの求婚を断る。

 昭和八年二月二十日、多喜二が特高警察に虐殺される。遺体を抱きしめてセキは言う。「ほれっ!多喜二!  もう一度立ってみせねか!  みんなのために、もう一度立ってみせねか!」お前が死んだままでよいはずがない。みんなの希望となるべく生き返れと語る母の心はマリアにも重なる。しかし、多喜二を見殺しにするような神さまなら、いないよりまだ悪いともセキは叫ぶ。そんなセキをタミは忘れることなく訪ね、ポロポロと涙をこぼして「多喜二さんが見ていてくれるよ、がんばろうね」といたわる。

 やがて、小樽シオン教会の近藤治義牧師からキリストの物語を聞いたセキは、両手両足に五す釘打たれた傷だらけのイエスと、「彼らをゆるしたまえ」の祈りに胸を打たれる。「やまじこえて」の讃美歌を繰り返し歌ううちに、故郷の山路を手を引いて一緒に歩いてくださるイエスさまの姿が目に浮ぶようになってゆく。近藤先生が教えてくれた「イエス涙を流し給う」という聖書の言葉を思うセキは、「イエスさまはみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる」という真実に出逢ってゆく。それは、苦労と悲しみに満ちた一生が実は神さまの涙で満たされていたという発見でもある。

 語り終えたセキの胸にはもう感謝しかなかった。そこから見える海には、タ光が天国からの光のように映えていた。

《寄稿者》

森下辰衛 Tatsue Morishita

プロフィール
1962年岡山県生。元福岡女学院大学助教授。
全国三浦綾子読書会代表。 http://miura-ayako.com/
三浦綾子記念文学館特別研究員。