三浦綾子の作品から学ぶ信仰(7)

『ひつじが丘』

  ~キリストの眼差しの前で

月刊アッセンブリーNews 第737 2017/2/1発行より

 『ひつじが丘』には秘密の中心が二つある。その二つの中心は物語の中で最も秘められた部分でありながら、物語を生み出す源泉となっている。

 一つは主人公 広野奈緒実の父 耕介が妻の妹と過失を犯した時に、妻 愛子がそれをゆるしたことである。

 それによって耕介は悔い改めて信仰を持ち牧師になるのだが、愛子が夫をゆるしえた理由は書かれていない。「わたくしは神と結婚したのではありません。人間と結婚したのです。人間と言うものは完全ではありません。いつも何かしら過失を犯しています。過失を犯さなければ生きていけないのが人間です」という言葉のみである。完全なる神の前にあって、罪を犯さずには生きられない不完全な存在である人問。それは愛子自身の自己認識でもあったのだろう。愛子が夫をゆるしえたのは彼女自身が神の眼差しの下にあっては隠すべくもない己が罪におののいた根源的な経験を持つからにほかならない。そして彼女を悲しみつつもゆるしてくださった神のその眼差しの中に彼女が生かされ、夫が裏切り姦淫(かんいん)の罪を犯したと知ったその日も生きていたからであろう。

 もう一つの中心は、物語中最も罪深い人物と見える良ーが密(ひそ)かに回心し、信仰告白として、キリストの十字架を見上げる自画像を描き上げていたことである。

 喀血(かっけつ)したことで実の母からも嫌われ家を喪(うしな)った良ーに「ここだって良ーさんの家じゃありませんか」と言って、いわば娘をたぶらかしDVを働いた男を牧師館に迎える愛子と耕介の愛が大きいのは間違いないが、更に深層の経験としては、ルオーのキリストの顔の絵が良ーをキリストに導くのである。

 『ひつじが丘』はプライドの悲劇である。奈緒実も両親に対し、良ーに対しプライドを握りしめるゆえに悲劇の道を行く。芸術家である自分は「自我の強い生活をしなければならない」と考えていた良一のプライドの城郭を、キリストの眼差しは砕いてゆく。

 牧師館で療養しながらルオーのキリストを見る良一は、やがてその眼差しに見られるようになり、良ーに堕胎を強要されて、中絶手術の失敗で死んでいったサトミの最後の眼を鮮やかに思い出す。いわばそれは ”どうして私を殺すの?” と問いいながら “悲しみ” と “罪” を良ーに突きつけてくるものであった。そしてそれと重なりながら “私を悲しんでくださる” キリストの眼差しが、不可避のものとして訪れる時に、人はただ「わが罪は常に我が前にあり」と告白する以外になくなるのだ。良ーは言う。「このキリストと俺は無縁じゃないっていう実感があるんだよ。」

 キリストの悲しみの目は、その眼差しに見られ、罪照らされるものを、しかしまた新しい生命に至らせるものでもある。良ーと愛子の経験は同じものなのだ。砕かれた良ーが描いた自画像は、良一の死後、自分を真実に愛してくれない者などゆるさないという奈緒実のプライドを砕くことになる。人間を真に砕くことが出来るのは愛の眼差しなのである。

 「原罪の思想に導き下されし亡き君の激しき瞳を想ひゐつ」 前川 正を詠んだ綾子の短歌である。

《寄稿者》

森下辰衛 Tatsue Morishita

プロフィール
1962年岡山県生。元福岡女学院大学助教授。
全国三浦綾子読書会代表。 http://miura-ayako.com/
三浦綾子記念文学館特別研究員。