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坂本キミ(八王子基督教会)

教団ニュース・アッセンブリー 1977年11月1日発行 通巻266号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

大いなる神

坂本キミ師(1903年〜1989年)

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。
AG誌(1977年〜1980年)に連載された自筆の回想記を通して、共に泣き笑いしつつ、時代が変わっても古くならないものを見つめられれば感謝です。

主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(哀歌三・二二~二三)


 大正十二年二月旧八王子市外に住んでいた、当時二十歳の私は、他人からは小工場といわれながらも工場の一人娘として誠に幸福そのものでした。当時の娘達がそうであったように毎日仕立屋に和裁(わさい)を習いに通い、折々に活花(いけばな)に行き、家では思うままに暮し、言うところなどありませんでした。


 私の父は、人としては実に親切で家業である製糸の面でもよく研究し、誰のためにもよく面倒を見てやる人で多くの人から慕われていました。ところがこの父が一度酒を口にするや一本のはずが二本三本となり、その果ては他人の手を借りなければおさまらない仕末で、こうしたことが月に一度位あり、年が経(た)つにつれ二度三度となり、ある時は夜中に人力車で帰るなり母に怒りちらすありさま、これを見ている年の若い私には情なく悲しくて、何もいらない、ただお酒を飲まない父であって欲しいと願っていました。


 母は苦しさの余り日蓮宗を熱心に信じていました。彼らから、坂本家に在る因縁が父を放蕩(ほうとう)に引入れているので、これを救い出すには題目(だいもく)をとなえて因縁(いんねん)の力に勝つより他にない、と言われそのために熱心に朝夕に題目ざんまいが始まり、私もこの母を見て父を救い出すために母と共々に床の間に安置されている日蓮の像に向って題目を唱え出したのです。一年たち二年たちました。しかし父の酒は強くなればとて弱くなる様子はさらにないのです。







ウェングラー師
   と子供集会

 こんな時、全くの田舎で広々とひろがる田畑の中に静かに流れている水のきれいな川。これが山裾に東西に延びている当時の小宮村中野でした。この村にその景色を賞(め)でつつウェングラー先生が通訳者を連れて散歩に来たのです。先生は小川に遊ぶ子供達を見てこの村で子供の集会を始めると決心したようです。


 それまではまだ伝道らしいことはしていなかったのでした。先生は早速、村の家々に子供にお話をするために部屋を貸して欲しいと願ったが、当時村の人達は異人さんなど見た事がないし、二人がかりでお話をするなど驚きの他はなく、また洋服を着た女の人など始めてで誰として受入れようとしなかったところ、ある人が自分の家では出来ないがあの家ならあるいは、と私の家にウェングラー先生を連れて来たのです。その時私は高島田に結っていました。父は来意の理由を知ると村の子供のためになる事なら喜んで部屋をお貸ししますとの談。母もこれには意義なし。しかし私は心の中で、日蓮宗の私の家で外国の宗教をしてよいのか、と考えていたのです。




 いよいよ約束の土曜日の午後が来ました。人力車に乗って婦人帽子をかぶり、この帽子には網が顔半分をおおうようになっていた。洋服は裾までの長い服で、また異人さんは部屋に入る時には別の靴をはきかえる。実に何もかも珍らしい事ばかり。子供達はと言うなら六畳八畳それに廊下まで一杯です。ちょっと広かった庭には近所の人達がガヤガヤワイワイで大変、人々は「坂本さんの家で異人さんが神様のお話をするそうな」でこの小さい変った話など全くない静かな村は異人さんの話でもちきりでした。お歌をうたいましょうと教えたのが、「主われを愛す」でした。懸命で教える先生は恥じらって声も出なかった位でしたが、子供もついに歌い出しました。お話はと言うなら日本語を全く知らないと言っても言い過ぎではないという位の言葉のウェングラー先生でした。ノートに書いた日本語の話をするのですが、聞く方が判断しなければなかなかむずかしいのです。たとえば〈木の葉が青い〉 これを、〈きーのはーがあーおい〉 こんな調子で一つの言葉が二つになって現われて来る。聞く人はと見れば大人も子供もシーンとしている。これは言葉のわからない人への同情のあまりであると思います。しかし神が働きたもう時、言葉はどうあれ表現はどうあれ、聖霊は人の心に働くのです。


 もともと私はお話を聞く心がなかったのです。子供があまり多くて整理がつかない様子を見かねて母が少し手伝って子供を見てあげなさい、と言われて手出ししたのでしたが、これが私の生涯を全く変えさせるなど誰も考えられなかったのです。
(ピリピ二章一二~一五節)
(つづく)