坂本キミ「私の生涯の回想記」(第2回)

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教団ニュース・アッセンブリー 1977年12月1日発行 通巻267号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

ウェングラー先生の信仰

 (前号の続きから)

 さて私にとって全く珍らしいこの話の内容は、心を洗うものでした。
 「エプロンやハンカチは汚れても洗えるが一番汚れやすくてきたないのは人の心です。そのきたない心はうそを言います。いじわるをします。じゃ、それは何で洗いますか?」


 聞く大人達も考えていました。そして先生はキリストの十字架について話されたのです。この話が私の心に食い込んで離れなかったのです。この頃先生は横山町という所から八王子の西の端のような追分町に移って来られたのです。そこで伝道を始められたのです。


 ある時、先生は私に次の日曜日の夕方七時にロボーセキに行きますから一緒に行きなさい、との事でした。私は考えた。八王子に紡績(ぼうせき)会社など無いのにどこの会社に行くのかな、と若い私は好奇心で一杯でした。家から先生の家まで道程にすれば一里弱、この道を遠しとせず(乗物のない頃でした)行きました。
 行ってみて驚いたのは、当時金持の家の結婚式でもなければ使わない高張提灯(たかはりぢょうちん)に赤々とローソクの火が灯っています。立ててある提灯には日本ペンテコステ教会と書いてある。


玄関ではいつも先生を乗せてくる車屋さんが、先生の〈イチ・ニ・サン・シ〉と言う調子に合せて打つ調子にならいながら、車屋は朝鮮飴屋(あめや)か、町の祭の時に来る見世物小屋の使う大きな西洋太鼓、ラッパに合せて流れてくるジンタの音、その太鼓を打っている手と足で調子をとらせている熱心なウェングラー先生、何がしかのお金欲しさに打っている車屋。後に救われて召されてからこの先生の心がよくわかって来ました。

 あの物静かな先生が主の召しを確信すればこそ、国を離れ、家を離れ、愛する人達と離れ、全く未知の日本においでになったのです。今こそ他国人の珍らしくない日本、必要な日用の品々も居ながらにして各国の品が手に入る現今の日本、言葉においても外国語を解する人は多くいる。しかし大正末期では、外人の必要は丸の内ビル内の明治屋か、あるいは横浜の元町で用をたさねばならない。こんな不自由を不自由ともせず、耐え忍びつつ喜んでおられたようです。


それは神の御旨(みむね)の何たるかを祈りのうちに示されて来日された先生の尊いお姿でした。先生は、ただひたすらとにかく前向きで働いておられました。神の助けと導きを信じておられた。


 さて、車屋に戻ってみると、先に聞いたロボーセキとは路傍伝道の事でした。小さい弓張提灯を持ち、太鼓を打ちながら車屋が行く、私も加えて三人(義理で行く人達)生れ落ちてあんな恥かしい思いをしたことがありませんでした。十字路に立って大声で歌うなんて、田舎の小さい町では知人が多いのです。人々は異人さんがいる大太鼓を打って歌う、これは人の足を止めるに充分であった。静かな夜の町に響き渡る太鼓の音に家々から人達は集って来る。しかし、おすすめをする人さえないこの路傍伝道はただ歌うだけ、

「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずるものは皆救われん」。

 これを何回も繰り返して歌った後に集会案内をして引上げる。家の中の集会では、英語を習いに来ていた小学校の先生で堀川さんと言う人が、先生のお話を手伝うのだが、これがまた少しわかりにくかった。しかし神が働きたもう時は実にすばらしいことです。


 大正十二年五月五日の夜集会が終ろうとしている時、神は一人一人の心を打たれた。悔改めの霊が注がれたのです。集まっていた八人位の男女の心に罪が示されて泣き出した者、自分の罪を神の前にお詫(わ)びしている者、おえつして泣く者、そして一人一人の心にこの所から去りたくない程の満足の心が与えられたのです。救われたのです。救主がわかったのです。喜ぴで一杯なのです。誰とはなしに歌っている、♪ただ信ぜよ、ただ信ぜよ♪ と。これが八王子教会の第一歩となったのです。


 これこそウェングラー先生の信仰の祈りの結果であると信じています。信じて神に従いきるとは実にすばらしいことです。

坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本きみ(八王子基督教会)

 

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。