坂本キミ「私の生涯の回想記」(第6回)

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教団ニュース・アッセンブリー 1978年4月1日発行 通巻271号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

『神学生時代』

 新しい年号の昭和に入って今までの住居兼教会が改築され、当時としては立派な教会堂が建てられました。入口の石造リの門には日本ペンテコスト教会と表示され、教会堂の中はそれまでの畳と違い講壇があり、椅子が並び洋風の窓の高い合(ごう)天上という工合で、全く気分は-新され、信者一同喜びました。


 ウェングラー先生と私は同じ追分町の一一O番地に、洋式の家ができてそこに住むことになりました。静かな環境はウェングラー先生に大変お気に入ったようです。ここから私は立川のべレア神学校に通学しました。当時中央線は石炭を燃(も)すポッポ汽車で、一時間に一本しか走らなかったのです。立川町にゆく汽車は朝七時何分かにのりませんと始業時間に間に合いませんので、朝は大変忙しくありました。


 …と申しますのは出かける前に、部屋や庭の掃除、次に共同井戸から台所の水がめに大バケツで六杯水を汲んでおくこと(水道もガスもない時代)それに炭を一日分と冬は石炭を物置から運んでおくこと、などの仕事があったからです。朝一本きりしかない乗合自動車の待合所かけこみます。いつも同じ顔が六または七人くらい。その頃の八王子では糸と織物に関係した働きが多くて、八王子以外に出かける人は全くまれな時代でした。たまたま自動車が故障で汽車に間に合わぬ時もあるのです。そんな時、冬ですと駅の待合室には石炭ストーブが赤々と音をたててもえていました。のり遅れた人達はこのストーヴのまわりに腰をおろして世間話で時を過しているのです。



 神学校での勉強は実に恵まれた時間でした。学んでいる事を忘れてノートもとらず、恵まれすぎて只々感謝感謝の連続も珍しくないのです。教師はデスリーヂ先生、へーヤ先生、ウリー先生、山路先生、二瓶先生、それに世話役をする菅本先生など特徴をもつ先生方で、忘れ得ぬ事が余りにも多かったのです。



 しかし今回、この思い出は省かせて頃きます。追分町にてウェングラー先生との生活が始まったある日、となりの奥さんが恥しげにオズオズと私に話しかけたのです。
 「あのー、変なこと伺いますが、キリスト教のお祈りには珍しい音を出すものを使うのですね」
 私はふと考えた。珍しい音を出すものとは何だろうと。それで「奥さん不思議な音とはどんな音ですか」と聞くと「ハイその音は毎日ではないが時折あの異人さんの部屋から、パチパチパチ、チン、ジャーと聞こえる音です。あれが聞こえる時は、お祈りの時ですか」と言うのです。
 読者の皆さんは何の音を想像されるでしょうか。当時の八王子の町ではこの音を知らない人が多かったのです。これはタイプライターの音でした。


 また近所の子供たちはウェングラー先生のことを赤い先生といい、私のことを黒い先生といっていたのです。子供たちは面と向ってはこう呼びませんでしたが、子供同志では合言葉のようでした。これは子供の目に写る髪の毛による区別でした。


 さて新築の教会には日曜学校の生徒でいっぱいでした。腰かけきれない程の子供たちは、どの子も熱心によくお話を聞いていました、見る物も聞く物も全くない頃でしたので、彼らにとってお話を聞くのは大変な喜びでした。また、お行儀もよかったのです。


 大人の集会には路傍伝道から新しい魂が導びかれて来はじめました。その中の一人に紅顔(こうがん)の美少年だった田中篤二兄、当時十六オ(現[執筆当時]吉祥寺教会牧師、田中義信師の父上で五一年十月召天された)が救いの体験をもつや、実に熱心に聖書を読み、よく祈り、よく御奉仕をしていました。教会は日増しに生き生きとしてきました。



 田中さんは川口村から自転車で三里の道を八王子の銀行に給仕として働き、夜は夜学校で熱心に勉強していました。田中さんは町に祭とか、あるいは何かの人出がありますと教会にかけ込んで大鼓をもち出して路傍伝近を始めます。静かな町では一人でも充分程の大きな声の持ち主でした。十字架のキリストこそ救主であることを熱心に説く田中さんでした。


 また教会では隣村に教会学校を始めました。


 この村の人たちは教会学校を実に喜んで下さいました。村の共同会館を土曜日の午後借りました。子供たちは村の人口まで出迎えていてくれます。村に入るや子供は大声で集会を知らせて呼び歩きます。若かった私は飛びたつ程に働きがいを感じました。子供たちは会館の掃除をし、水を打ってキチンと座って待っています。この子供たちがどんなに土曜日を待っていたことでありましょう。
 この喜びがありますからこの子供たちが待っている往復三里の道も近しとして歩きました。
 この村の伝道はずっと続いていましたが、私が神学校卒業後、甲府に開拓伝道に出た(昭和六年)ことから続かなかった事をあとで聞き残念でした。この村に今はカトリック教会が建っています。


坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

 

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。