礼拝の中の賛美(3)

細井 眞  Makoto Hosoi(十条基督教会)

2000年6月1日発行 第537号

  私たちが主を賛美し、主を礼拝し始めると、何かが起こってきます。いったい何が起こるのでしょうか?

 もちろん、起こるかどうかは問題ではなく、起こらなくてもいいのです。なぜなら、私たちはただ神を礼拝するために存在しているからです。

 しかし、何かが起こってきます。

 賛美の中に主はご自身を現わされます。主は臨在されているが、働かれないと言うことはないのです。主は力強く働かれ、その証拠を私たちに一定されるのです。

 私たちの教会では日曜日の午後、賛美集会をしています。(最終日曜日の午後は福音集会)2曲ほど賛美し、証しがされ、また、賛美があります。30分ぐらい賛美して、あと1時間以上は祈りの時間です。
 主を求め、主と交わり、必要を訴えて祈ります。2時間から3時間の集会になります。(礼拝の時の賛美と祈りも1時間ぐらい。) このような集会に新しい方が来られると私はよく心配します。「この方は途中でいやになって帰ってしまうのではないだろうか。」と。彼らにとって、私たちの賛美は長く、祈りの時間も長いからです。

 ある日、ひとりの女性がこの賛美集会に参加しました。集会に少し遅れて参加したためか、教会のベンチには空席があり、十分に前の方の席に来ることができたにもかかわらず、彼女は後ろの方に座っていました。賛美の時、初めはただ立っているだけで一緒に歌っているようには見えませんでした。赤ちゃんを連れてきていたため、赤ちゃんの方に気持ちがいっているような感じでした。賛美から祈りに移ってきました彼女の方を見ると、彼女はしきりに目の方に手をやっているようでした。私の妻が、彼女のそばに行き、彼女に話しかけました。救い主について語った後、祈りに導きました。しばらく祈った後、私の妻は私に「彼女がイエス様を受け入れたので祈って欲しい。」と言って来ました。
 私は彼女を前の方に連れて来るように指示し、彼女は恵みの座で明確な救いの決心をして、悔い改めの祈りと信じる決意の祈りをしました。

「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」( ヨハネの福音書16:13)

 主は賛美の中で、力強い働きを始められ、人々に触れてくださり、その魂を解放し、真理に導き入れ、私たちに救いをもたらされるのです。

 私たちの教会のある役員は「ここ数年間における、賛美のウエイトが大きい礼拝において、新たな恵みの段階に入ったように思います。感動のレベルが知性を超越して霊におけるそれへと進んでいます。知性を頼りに手探りの状態で神様の恵みを感じとろうとしていた時とは違う格別の感動を週ごとの礼拝で体験しています。」と証ししています。