「まず祈ろう!」
毎朝、聖書をひもとき、上よりの恵みを求めて祈る。その時「楽しき祈りよ」の聖歌が心にうかび、祈りを心の底から楽しむ者になりたいと強く願う。しかし、祈りを「おつとめ」のように思ったり、或いは言葉だけを唱える「お題目」のようになったりして、自分の祈りの貧しさを恥じ入るのみである。
月刊アッセンブリーNEWS
1989年5月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「まず祈ろう!」
だが祈りをやめることはできない。ひまずいて祈る時、不思議な安心感、力、喜び、感謝が沸き上がってくる。キリストを賜った程に私を愛して下さっている神の愛が魂を包み、恵みによって生かされていることを実感する。だから祈りを絶対にやめないで祈り続けるのである。
祈りを通して知ったことは、祈りは祈ることによってのみ体得できるものだという事実である。祈りの本を何百冊読んでもまず自分で祈らなければ決して祈りは身につかない。毎朝寝床を飛び出て祈ることはひとつの労苦である。しかし祈りは魂を養う聖なる労苦である。もし祈りを怠れば、魂はやせ衰え、やがて祈れなくなる。祈りの代わりに、組織、会議の中に逃げ込むようになる。だからまず祈るのである。祈りを軽視しないでねばり強く祈るのである。
次に祈りは誰でもでき、最も確実に神の御心を知り、おし進める最善のものであると信じ切ることである。祈りこそ最善と言いながら、祈りなしに或いは祈りを少なくして効率よく教勢を向上させたいと少しでも思うなら、それは世俗の毒に蝕まれている危険信号なのである。
「静まれ、祈れ!」…主は幾たびも寂しい所で祈られた、この主の御声を聖霊によって聴く者は、今からすぐに祈りはじめるであろう。祈りの中味は、「ご利益信仰」ではなく、「御心をなしたまえ」と砕かれて信じ切って祈る祈りである。主イエスさまより欲しいもの一つを求めよと問われた時「祈り心を」とスタンレー・ジョーンズ博士は答えたという。友よ、あなたは何を求めるか…。
主より「祈る心」を聖霊によって与えていただき、まず自分自身が、今日よりひざまずいて祈る者となろうではないか!
《執筆者》
渡辺 正晴
熊谷福音キリスト教会 牧師
2011年4月召天