「継続は力」
「おじいちゃん、こけて足を打って痛いからお祈りして」、「天の神様、和也がこけて膝を打って痛いですから、イエス様の力で早く治して下さい。イ工ス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。
彼はニッコリ笑ってまた表に駆け出して行きました。イエス様は「心をいれかえて幼な子のようにならなければ」と言われましたが、幼児から教えられること、しばしばです。
月刊アッセンブリーNEWS
1993年10月号掲載
月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。
「共に成長するために」
私の座右の銘の一つに「継続はカなり」がありますが、お祈りこそまさにそうだと思います。クリスチャン・ホームの子は、おなかの中に居る時から祈り続けられ、お祈りしたら必ず神様は答えて下さると理屈抜きで、体で覚えています。私たち大人は祈る前に考えますが、幼児は単純に信じ切って祈ります。本当に教えられます。
祈りについてはいろいろ言い尽くされ、本もたくさん出ています。ともあれ、私の実感は、しようと思えば簡単にできますがお祈りは難しいということです。朝起きて祈ろうとしても、しんどくて起きられない時、自分のからだを打ちたたいて服従させなければならないこともあり、座って祈り始めたら、やらなければならない仕事が次々と頭の中を駆け巡り、神様と交われない時も、何とかして神様の細きみ声を聞き取ろうと自分のすべてをアンテナにすることも、また、御霊に取り扱われて言葉に表わせない充足感に満たされる時、反対にいくら祈ってもすっきりしない時と様々です。
だけどただ一つはっきりしている事は、祈る私の側がどうであれ、私たちが求めない先から私たちの必要なものをご存じである父なる神が、私の祈りに耳を傾けていて下さるという事です。まして神は、日夜叫び求める選民に対し、長い間そのままにしておかれるはずがない。いや、求める者に良いものを下さらないことがあろうか、と自分に言い聞かせつつ、委ねられた教会と祖国のリバイバルとを信じて今日もまた祈り求めます。
《執筆者》
前川 圭司
門真キリスト教会
引退