祈りのコラム (38)

「人々の数が満ちるまで」

 今年に入ってある晩のこと、教会としてのビジョンは何にするべきかと祈りつつ思い定めているうちに、「そうだ。松任市の人口が6万人を記録したというのだから、その一割にあたる6千人が救われることだ。」そう結論することになってしまった。

月刊アッセンブリーNEWS
1992年11月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「人々の数が満ちるまで」

 さっそく臆面もなく祈祷会の祈りの課題の筆頭にも印刷し、皆にも祈ってもらうことにした。冷静になってよくよく考えてみれば、とんでもない数字であり、果して自分の目の黒いうちに達成できるものやら、どうも怪しい気持ちになる。まあ、自分の代で駄目なら次の世代で実現してもらえばいいじゃないかと腹をくくって、いまだに課題として祈ってもらっている。

 最近聖書を輪になって読み合い、相互に感話を分け合う集まりで、黙示録6章を学んだのであるが、そこに「人々の数が満ちるまで」という一句があるのに気づいた。その人々の数というのは、この場合には、信仰ゆえに殺され殉死する人の数のこと。私はこの一句によって、人間というものは神によって数えられているのだということが強く印象づけられる思いがした。

 数字とは、人間の合理的精神を象徴する代表選手であろう。なんでも単純に量化して数字にしてしまい、ひたすらそういう数字に興味を集中するきらいがある。それは人間の陥るワナであるが、神は違っておられ、一人のかけがえのない地球よりも重い人格として数えられる。使徒パウロがコリント市の宣教に、てこづった時に、主は「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と激励された。主はその町の救われる魂を数えられたに違いない。

 6千人の魂の救いのために、これを課題として祈る。数字のロマンチシズムに陥る危険がないわけではないが、天で数え給う主に呼応して、救われる「人々の数が満ちるまで」苦祷しようと思う。礼拝に現実に集められた方々の数とビジョンとの間にはあまりにも大きなギャップがあるのだが、それに圧倒されるというより、そんなにも沢山の人々を数えて救うことがおできになる神を仰いで祈りたく思う。

《執筆者》

高木 攻一

松任キリスト教会

(現在は泉佐野福音教会に転任)