「勝利の愛の旗印」   

 かつて、キリストを否定する宗教カルトに入っていたことがある。そこでは、「恵み深い御在天のお父様」に始まり、長々とことば数の多い、飾りたてた祈りをしていた。けなげな子どもが、しきりにお父さんのご機鎌を伺うような祈りだった。

月刊アッセンブリーNEWS
1996年11月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「 勝利の愛の旗印 」

 クリスチャンになって、もっと身近に、もっと親しく神様と会話していいのだ、ということを知った。イエス様がいのちを捧げて下さった、神様の尊い子どもとして、私たちは、遠慮せず、恐れず、無邪気に、大胆に祈っていい、むしろそのことを主は願っておられる。

 苦しくて辛い時、けなげな子どものように「素晴らしい天のお父様、私は大丈夫、心配は要りません。」と本音を隠す祈りをするのではなく、ただ、「天のお父さん、お父さん、お父さん…」と祈る時に、あの放蕩息子の父親のように、走り寄って抱きかかえて下さる主と出会う。み言葉を通し、御霊から示される思いを通し、様々な自然や人と過して、主の深い愛に、私は何度も何度も気づかされてきた。時には、主に対して呟いたり、不満をぶつけたりすることもあるかも知れない。しかし、主は、いのちをかけた私たちを、いつもいとおしく思い、両手を広げて待ち続けていて下さるのだ。

 祈りを通してのみ、私たちは、主と出会い、主を親しく知る。祈りを通してのみ、私たちは、主の愛に満たされる。祈りを通してのみ、私たちは、主の栄光の輝きとなる。そして、祈りを通してのみ、この地球が変わる。世の中がどう移り変わろうとも、たとえ暗く翳(かげ)っていくとしても、私たちは、祈りの灯を、決して消すまい。

 ある時、祈りの中で、教会に主の愛の旗印がはためいているのが見えた。私たちキリスト者一人ひとりの上に、主の愛の旗印がたなびいているのが見えた。どんな困難にも打ち勝ち、道を開き、圧倒的勝利を与えて下さるキリストの永遠の愛の旗印だ。たとえ私たちに勝利を与えまいとして、サタンが私たちの祈りを崩そうと狙っていても、私たちは、何度でも何度でも、祈りの祭壇を築き直すのだ。私たちには、勝利の愛の旗がすでに掲げられているのだから。

《執筆者》

五島 靖子

松山神愛キリスト教会