祈りのコラム (50)

「ひとりの人が
  救われるために」   

 私たちが救われるために、またクリスチャンとして歩む中で、どれほど多くの人に祈られて来たでしょうか。所属教会の牧師や兄弟姉妹など、自分の知らない所で自分のために祈り続けられている事を知ると、本当に感激します。そして自分の事を覚え、絶えず祈り続けてくれる人がいる、というのは、何と心強いことでしょうか。

月刊アッセンブリーNEWS
1997年 1月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「ひとりの人が救われるために」

 私のために長い間祈り続けてくださっている一人の婦人がおられます。その姉妹は家庭を解放し、日曜学校をしておられ、私はそこの生徒でした。でも、中学生になって、すっかり離れてしまったのです。大人になり大きな悩みを抱えて、10年ぶりにそこの区域集会を訪れたとき、その姉妹は私の名前を覚えておられて「ずっと祈っていたのよ」と言われました。70才を超える方が、一日曜学校生徒の名前を、10年も覚えていられるとは、驚きでした。パウロは、手紙の中で「私は祈りの中で、絶えずあなたのことを思い出しては…」とよく書いていますが、その姉妹も同じように、私を覚え名をあげて祈ってくださっていたからこそ、そのように言えたのだと思います。
 
 祈られるばかりであった者が、人のために祈る事を教えられ、そのことがどんなに重要であるか、どんなに幸いなことか、教えられています。一人の人が救われ、解放されて喜んでおられる姿を見せて戴けるとは、何と大きな恵みでしょうか。その事がさらに私たちを励まし、信仰の成長へとつながっていくのです。
 
 このような祈りは忍耐を必要とします。私たちの力で祈り続けることはできません。主が導き、祈らせてくださるからこそ、できるのです。そして誰よりも主が私たちのお手本となられ、とりなし続けてくださるのです。
 
 教会の奉仕は、たくさんありますが、祈りほど誰にでもできて、大きな働きはありません。
 
 リバイバルという言葉を多く耳にするこの頃ですが、私たちの周りの一人が救われることから、リバイバルは始まるのではないでしょうか。今年も私たちの身近な一人が救われる事を願って、祈り続けたいものです。

《執筆者》

柴田 良子

大阪中央福音教会
(現在は、須崎福音キリスト教会に転任)